那月はあいつと付き合わない方がよかった、という俺の主張は当然のように失笑でもって迎えられた。テーブルを挟んで向かい側に座っているのは練習室の鍵を事務に返しにきて鉢合わせた真斗と、課題をほっぽり出して音楽科まで油を売りに来ていたレンだ。片頬をひきつらせて、また始まったよ、と言わんばかりに視線を落とす。また、というのはもちろん、こんなやりとりが幾度となく繰り返されているからに他ならない。
 いい加減にお兄ちゃん離れしなさいよ、とレンが年長者面をしてため息を吐く。俺は那月のためを思って言っているんだよ、という言い分なんて認められた試しがない。隣で涼しい顔をして抹茶ラテを啜っていた真斗は気まずそうに目を逸らした。きっと溺愛する妹に彼氏ができた時のことを想像したのだろう。その点でこいつは俺を責められない。だがこの話と愛情はまた別の話だと俺は思っている。
 たとえば、インスピレーションの話。
 いわく、の描く絵は那月のインスピレーションをいたく刺激するらしい。なんだそれは、と鼻白んできいてやると、違うなぁ、と一転、考えるように首を傾げた。
ちゃんの絵はね、僕の心を揺さぶるんです。あったかい光がじんわり広がって包み込んでくるような時もあれば、閃光のようなものが真ん中を貫いていく時もある」
 もともとおっとりした奴ではあったが、その時の那月はことさら慎重に言葉を選んでいるようだった。
「それはびっくりするほどキラキラしていてね、さっちゃん。それで僕はいつも、この光を音にするために生まれてきたんだって、思うんだよ」
 そう言って那月は笑う。しかし視線は俺ではないどこか遠くを見ていて、それで俺は、この恋はいつか那月を押しつぶすという確信に至ったのだった。
 しかしこんな話をしたところで目の前の二人が俺の味方になってくれるはずもなく、それのどこがいけないんだとひたすらに呆れ顔だった。一見ふたりはふわふわ花畑を散歩しているように見えて、その実お互いも周りもしっかり思いやる頼もしいカップルだ、というのがこいつらの考えだった。こいつらに那月の繊細さがわかるはずがないのだ。にだってそうだ。俺は母さんのお腹の中から一緒だったのに。
 大きくひとつため息をついたレンはすぐさまいたずらっぽい笑みを浮かべ、一番いい解決策はお前も恋人を見つけることだよ、と薄ら寒いウインクをした。さらにあろうことか、ちゃんの友達のあの子とは最近どうなのよ、と顔を覗きこんでくるので、那月と同じことを言うんじゃねえと一喝して俺は椅子から立ち上がった。どういうわけか真斗もこっちを生真面目な顔で見上げているものだから、もうわけがわからない。俺はカフェテリアを飛び出していた。



 そして角をひとつ曲がったところで、問題となっているを見かけた。
 人の賑わいの絶えない芸大の放課後に、なぜ彼女を見過ごさなったのか。考えてみれば簡単なことで、奴は廊下を走っていた。廊下と廊下が交差して十字になっているところを、小さな影が素早く横切っていったので、それで目を引いたのだった。ちらりと見えた横顔は真剣に前を向いていて、彼氏と同じ顔をするこちらの存在には気づかなかったようだった。
 とっさに俺は駆け出していた。ほとんど無意識だった。の後を追っているのだと気づいたのは、自分がオイルやら木材やら陶芸の土やらのいっしょくたになったにおいの充満する美術科棟にいるのを認識してからだった。ウサギを追いかけてワンダーランドに来てしまったアリスの気持ちに、この時ほど思いを馳せたことはない。本当に同じキャンパスか目を疑うくらい、音楽科棟とは別世界なのだ。築年数も構造もほとんど変わらないはずなのだが、明らかに漂う空気が違っている。
 どことなく心細くなりながら、の消えていった教室をそっとのぞいた。
 部屋は画材道具でごったがえしていた。ところ狭しと並んでいるカンバスから、油絵の教室なのだということはすぐに知れた。そういえばは油絵専攻の学生ということだった。
 その部屋の奥の方、ひときわ大きなカンバスの前にはいた。真っ白ではなく、全体的に色が乗せてあっていかにも描きかけといったていのカンバスだ。ということはこれはの絵(になるもの)なのだろう。入り口にちょうど背を向けるような配置になっていたので表情はうかがい知れない。でもどこか、背筋のピンと張りつめるような緊張感を感じる。切羽詰まっていると言ってもいい。足元にほっぽりだされた荷物もそれを物語るのに一役買っていた。
 しばらく無言でカンバスに向かい合っていただったが、何か合図でもあったのか、ふいに筆を乗せた。彼女の動きに合わせて色彩がすっと花開く。
 するとあとはひたすら、一心不乱に筆を振る音ばかりだった。小さくてかわいいもの好きの那月の好みを体現したようなに、あの大きなカンバスは登頂不可能な霊峰のように映る。それでも彼女は一生懸命手を動かしていた。まるでギリシャの神々の神殿に壁画を描く神聖な行為のようだ、とふと思った。見たこともないくせに、ばかげた大げさな物言いだ。わかっているのに、どういうわけか大昔の人たちはこんなふうに神殿を作ったのだろうという確信だけがあった。
 ここまで彼女を突き動かすものとは。
 彼女が走ってきた場所を思い出せば、考えるまでもないことだった。俺はそっとその場を離れた。答えを出すことと認めることはいつも同時にやってくるわけではない。




 朝だった。遠く北海道から東京の芸大に二人の息子を上京させるにあたり、両親は二人の同居を条件に防音マンションの家賃援助を申し出た。お父さんとお母さんはさっちゃんを一人にするのが心配なんですよぉ、と那月は俺の頭を撫でるジェスチャーをまじえて言ったが、ぽやぽやして生活力のない那月の世話係を押し付けられたのはむしろ俺の方だと思う。その証拠に毎朝紅茶をわかし、トーストを焼き、オムレツを作るのは俺だ。実家から送られてきたバターとヨーグルトとハスカップジャムをテーブルに並べていると、那月が洗面所から出てきた。おはよう、と言いながらダイニングテーブルに腰掛ける那月は目の下に特大のくまをこさえている。それ、と俺が自分の目の下を指さして睨むと、那月はバツが悪そうに笑った。昨晩、作曲に夢中になってほとんど寝ていないのだという。
 もちろん、昨晩隣の部屋からいつまでも人の動く気配がしていたことも、廊下からうっすら明かりがもれていたことも俺は知っている(俺にはやや不眠のきらいがあった)。ききたかったのは、そこまで身を削って一体どういう了見なんだということだった。あの那月が凡人よろしく徹夜で努力する姿なんて、実家にいたときの俺にはついぞ予想できなかった未来だ。
 でも、とってもいい曲が書けたんですよぉ、と那月は胸を張って言う。俺は口を曲げ、無言でトーストとオムレツが湯気を立てる皿を那月の方に押しやる。実家からわざわざクール宅急便で送られてきたミルクが、たっぷり入ったオムレツだ。冷ますのは許さない。
 ちゃん喜んでくれるかなぁ。那月はさらに顔をほころばせて笑った。
 なんてまぁ、幸せそうな顔しちゃって。