聖川真斗と初めて出会ったのは、親の開いたパーティー会場でのことだった。
 姉の婚約お披露目パーティーだったような気もするし、なんでもないパーティーだったような気もする。金持ちというものはとかくパーティーをしたがるものだ、と金持ちの令嬢である彼女は冷静に考えていた。日本を代表する財閥の娘とはいえ、上には兄がひとりと姉がふたりいるので、彼らに比べればかなり自由に育てられてきた自覚はある。三女がピアノやヴァイオリンを放り出して使用人の子どもと追いかけっこに夢中になっていても、両親の方も何も言わなかった。期待していなかったのか、末っ子だから少しくらい甘やかしてもいいと思っていたのか、小さな男の子の髪を引っ張る手をとめ、ふと足をとめて見上げた先、瀟洒な細工を施した窓枠の向こうで、やれやれとすくめられた肩を何度みただろう。それでも面と向かえば頭を撫でてくれる手はあたたかかった。






 戦後の混乱の最中に貿易で財を成した家は、とにかく催し物は洋風に、と考えている節があった。その日も敷地内にしつらえられた自慢の西洋庭園で行われたのは英国式のティーパーティーで、メイドや執事の格好をした使用人たちが忙しそうにティースタンドをあちらこちらと運んでいた。
「あなた、聖川財閥のところの子ね。今日は和装じゃないんだ」
 コニファーの垣根のそばに隠れるようにたたずんでいた少年は、驚いたように大きな瞳を瞬かせた。
「君は?」
「私は
「・・・ああ、家のお嬢様ですね」
「・・・、よ」
 鈴を鳴らすような少年の声ははっきりとした発音で耳に届く。
 そのとき、彼女を気まぐれの思いつきが貫いた。口のはしをにんまりと引き上げて笑うと、はやにわに少年の手をとった。ぎょっと見開かれた少年の瞳に射抜かれながらも、かまわずは走りだす。いくつもの垣根を曲がり、緑に囲まれた細道を走る。後ろからなにやら声が聞こえたような気がしたが、彼女は振り向きもしなかった。






 しばらくしてクロッカスの咲く茂みに飛び込み、気持ちよかったでしょ?そう笑みを交わそうと真斗の方を向くと、彼女は口をつぐんだ。真斗がぜえぜえと肩で息をしていたからだ。呆気にとられて自分の手のひらを見る。と、先程まで彼の手を握っていたそこは、じっとりと汗で湿っていた。
「なによ、男の子のくせに」
すると彼はむっとしたように睨みつける。よく見れば彼の瞳は人形のようにきらきらと光っていて、肌もまるで絹のようななめらかさだった。髪の毛だってつややかに揺れている。理髪そうな横顔はきっと、日の射さない書斎でもくもくと帝王学に励んだ証なのだろう。なるほど、これでは男らしさをどうこういうのは酷かもしれない。は小さくため息をついた。
「お父さまがね、今日は大事な用があるから屋敷にいなさいって、言うのよ」
 だから、逃げてきたの。彼女は笑ったが、真斗は深刻そうに顔を曇らせた。
「…お父上の言うことは聞くべきです」
「でも、こんなに天気がいいのに」
「天気の良い日は明日もあります」
「でも今日は、今日しかないわ」
 彼女はすっと立ち上がると、近くにあった木の枝に手をかけた。さん、と後ろからぎょっとした声がかかる。気にせず足を枝にかけると、慌てたように少年が薄手のドレスの裾をひっぱった。
「なにを、しているんですか!」
「そんなこともわからないの?」
「それ女性のすることですか!」
「女性?」
 彼女はくすっと笑うと、少年の手を払ってするすると木を登っていった。そして一番高い枝で腰を下ろす。
「男の子なのに、女の子のすることもできないの?」
 青ざめた顔が一転、カッとのぼる血で真っ赤に染まった。上着を脱ぎ、ネクタイを外し、幹に手をかけた少年を見てぎょっとしたのは今度はの方だった。あらわになった腕は小枝のように細くて、どう見たって体重を支えるだけの力がこもるとは思えない。ちょっと、と声をかけたを、少年はぎっと睨みつける。
「できます…男に二言はありません」
 おそるおそるといったように最初の枝をつかみ、ありったけの力で上半身をのせる。たちまち白いシャツは樹皮で茶色にかすれた。ふるふると震える右足を枝にかけると、彼はぜえぜえと息をつく。半ズボンの裾からのぞいた白い素足はきっとひっかき傷だらけになってしまうことだろう。一瞬こちらをむいた頬にも一本の赤い線が見えたような気がする。唐突にの後悔は始まっていた。
「…わかったわよ」
 彼女は大きく息をついた。
「もう、あなたの根性はわかったわ。だからほら、もう降りてよ。あなたが降りてくれないと私も降りれないし」
「…まだそこまで登っていません」
「わからずやね。そもそもここまで登ってこれたとして、あなた降りられるの?」
「できます!」
 少年はか細い手を伸ばし、次の枝をつかむ。そもそもこの木は自分や遊び仲間である使用人の子どもたちの木登り用にと、みなで庭師にねだって植えてもらったものだった。小さな子どもたちでも登りやすいように、できた庭師は背もあまり高くなく枝も多いものを選び、屋敷の人間の目につきにくい場所にひっそりと植えた。この木はずっと子どもたちの成長を見守ってきたのだから、なにも心配することはない。はずなのだ。は枝をつかむ手に力をこめた。

 少年はすでに、のすぐ下の枝まで登ってきていた。途中何度も何度も休憩を挟むものだから、のおしりもいい加減すっかり痛くなってしまっている。帰りたいな、と、何度も顔についた木くずを気にする少年をみながら彼女はぼんやり思った。会場では今頃、二人の子供の不在に気づいて騒ぎになっているだろうか。それとも、いつものお嬢様のお転婆だと、そうそうに諦められているだろうか。彼を尻目にさっさとその場を逃げ出してもよかったが、擦り傷だらけの手足をみるととたんに躊躇われた。
 肩で息をする少年が、満を持して最後の枝に手をかける。はじめよりもずっと力強い動きで、彼は幹に足をかけて、そしてよじ登った。
 どうだ、と、勝ち誇った少年の瞳が彼女を射抜く。ふてくされて下を向く彼女はそれが面白くない。
「…まあ、認めてあげてもいいわよ」
「でしたらもうこんな危ないことはやめてください。かりにも、家のご令嬢ともあろうお方がこのような…」
「危なくないわよ。毎日やってるし。他の子達はみんなあんたよりずっと早く登るわよ」
 むっとして彼の方を見ると、彼は怒ったような顔をしていた。いつもみんなそうだ。女の子らしくないだの、家の名に相応しくないだの。どうでもいいことばかり言う。
 奥で息を潜ませていた怒りが急に燃え上がり、彼女は枝から足を下ろした。上から声があがったが、彼女は聞こえないふりをした。ひとつ下の枝に足をかけ、体重を移す。そのとき。
「お嬢様!聖川様!!」
 生垣の門から悲鳴があがった。やばい。体は反射的に動く。逃げ出そうともう一方の足を別の枝にかけたところでの体は宙に舞った。
 不思議と頭は冷静だった。周囲の物の存在感は落下速度とともに研ぎ澄まされていく。舞い落ちる葉一枚一枚の動きが目で追え、合間をぬってきらきら光る太陽の光はまるで宝石のようだ。
 その向こう。泣きそうな顔の真斗が手を伸ばすのが見えたような気がして、彼女は瞬きを忘れた。






 その後のことは、あまり思い出したくない。結局の体は真っ逆さまに地面に落下していったが、茂みがクッションになって大した痛みもなく、待っていたのは庭師の怒号と執事の悲鳴ただふたつだった。彼らの怒りの矛先は当然だがに向かって一直線に伸びていた。肝を冷やした執事が真斗を大慌てで木からひっぺがし、ご無事でよかったとむせび泣いた。聖川の坊ちゃんに何かあっては旦那さまに面目がたちません。本当にご無事でよかった。いえ、僕は。聞いているんですかお嬢様。
 耳を引っ張る庭師が面倒臭くなり、彼女は今度こそしっかりと目を閉じた。



 その夜。執事から外出禁止を言い渡され、彼女はふてくされてバルコニーに座り込んでいた。別館の大広間ではティーパーティーに引き続き盛大なディナーが催されており、管弦楽団の音色や人々のざわめきが風にのって届いてくる。その中に混じりたいわけでは決してない。むしろ大人の勝手で開かれる式事など窮屈で、一刻もはやく逃げ出したいと考えるのがの常だった。なので、どうして自分が不機嫌なのかはまったくわからなかった。聖川の軟弱跡取り息子が木を登れたことなのか、自分が得意の木登りを失敗したことなのか、執事たちが自分よりもまず真斗の心配をしたことなのか、それとも別の何かなのか。考えれば考えるほどどれでもないような気がしてくる。頭はぼんやりと霞んでいった。
 ふと視線をずらすと、別館の方から駆けてくる影があった。ざわり、と胸を走ったそれは予感だ。たちまち影は大きくなり、不安げに周囲を見渡す真斗の姿がくっきりと見えるようになる。彼女はバルコニーの格子におそるおそる近づいていった。あのこがこっちに気づかなければいいのに、と心は別のことを考える。彼の大きな目がふいに上を向き、息を切らしながらすぐ下まで駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
 月明かりのそそぐ暗闇の中、真斗はまっすぐに彼女の姿を見上げていた。
 もともと昼と夜で着衣を改めるつもりで準備させていたのか、彼の装いは夜会にふさわしいものに様変わりしていた。もちろん年齢が年齢だけに長居は許されていないのだろうが、それでも今の彼は聖川財閥の跡取り息子の重みを背負って佇んでいた。シャツ一枚で体中を木くずと血で汚した彼はどこか遠くへ行ってしまったようだった。
「ずっと心配だったんです。あんな高いところから落ちて、しかも夜会にはいらっしゃらないときいて…」
 彼はふいに顔を曇らせた。自分が表情ひとつ変えないからだと気づいても、彼女の頬は少しも動かなかった。
「やはり、どこか打ったのではないですか?僕が意地になって登ると言ったからあんなことに…」
 おろおろと周囲を見渡す。伝えるべき使用人を探しているのかもしれない。彼女はぐいと身をバルコニーから乗り出した。
「ばかね。ちょっとは自分のことも心配しなさいよ。あなたこそ、大丈夫なの」
 彼はぱっと顔を輝かせた。
「はい。傷は先程そちらの執事さんに手当していただきました。今日は少し指が疲れていますが、またすぐピアノも弾けるようになるので、問題ないと」
「ピアノ?あなた、ピアノなんて弾くの?男の子なのに?」
「いけませんか?」
「お兄さまはピアノなんてやらなかったわ。お姉さまはふたりともやっているけれど」
「僕にピアノを教えてくれたのもじいです。なにより男のピアニストはたくさんいます」
「…知ってるわよ、それくらい」
「ですが、お父上にはご内密に願います」
「秘密?なぜ?」
 一瞬、とても困ったような顔をした。眉根をよせて、心底怯えているようだった。それだけでふいにすべてがわかってしまって、彼女は何も言えなくなってしまった。腹がたって悲しくて、しかしぶつける場所を見つけられず格子に爪を立てる。
「あの木ね、珊瑚樹っていうのよ」
 言葉通り唐突に降ってきた単語に、彼は呆気にとられた表情をした。
「夏になると白い花が咲いて、秋になったら実をつけるの。赤い実よ。どちらもとってもきれいなの。見せてあげるから、初夏になったらまたいらっしゃい。そのときはうちにあるピアノも弾かせてあげる。スタインウェイよ。知ってるでしょう。お姉さまたちのピアノだけど、あなたはとくべつ。夏なんていったけど、弾きたくなったらいつ来たっていいのよ」
 最後になるにつれ、言葉は少しずつ震えていった。彼への憐憫ではない。それでは何かと問われたところで答えられない、無責任な感情に突き動かされている。
 何も知らない彼は嬉しそうに笑った。