#ずっと昔の話
は大きな黒い影に手を引かれるまま、闇色の服を纏った人々の中を歩いていた。吸い込んだ空気が妙によどんだものだったので、彼女はふいに息苦しさを覚えたが、伝える相手がいないのでひたすら口をつぐんでいた。その日、すでに彼女はひとりぼっちだった。
夜の色を纏った影たち。そのうちのひとつ、通り抜けざまに肩の触れた影がハンカチで目元をおさえていて、はそのハンカチの白さに目を取られた。けれども目の前の大きな影が手を引くのをやめないものだから、その景色は無慈悲に後方に消えていこうとし、彼女は一生懸命首をめぐらせて白を追いかけたが、あっという間に黒服の中にまぎれて消えてしまった。
人ごみがまばらになり、大きな石が地面を覆うひらけた場所に出ると、ふいに影は足を止めた。痛いほどに握り締められていた手が離され、するとふいに後ろから肩を抱くものがあった。
「ミスタ・デュランダル」
は舌ったらずな言葉で、見知った青年の名前を口にしていた。彼は慈悲深いまなざしで彼女を見下ろすと、
「これからはギルと呼んでほしいな」
そう言って彼女の頭に手をのせ、やわらかく微笑んだ。
「きみは強い子だね」






#とあるパーティー会場にて
いくつになっても彼女の手は引かれるために存在しているかのようだ。ギルバートの大きな手に包まれながら、彼女は洗練された料理が、これまた洗練された給仕たちの手によってテーブルの上を彩っていく様をぼんやりと眺めていた。

「あの夫妻の」「さぞかし」「あなたがあの研究の」「後見人」「惜しい人物」「DNA」「フリューリンク教授は」「プラントの損害」「まぁ、この子があの夫妻の」「この前発見された」「zin0遺伝子」「お飲み物は」「さすが」「かわいそうに」「ミスタ・の研究の成果はおどろくべきものでした」「お若いのに大変ですわね」「ローランシー議員が」「ミスタ・シャトレの」「将来は」「昔は」「研究」「研究」「メンデル」「チェス」「オーブが」「ここでは」「研究」「所長の座」

耳から入ってくる音は彼女にとっては全て雑音でしかなかった。耳を塞いでしまいたいと思ったが、人ごみの中心でにこやかに笑顔を振りまくギルバートに右手を取られているのでそうすることができない。






#デュランダル邸
やがて、彼女は耳を塞ぐ以上に効果的な方法を思いついた。ドレッサーの中のよそいきをすべて鋏でびりびりに切り刻んだのである。スリップドレス一枚という姿で布団を被ったまま一向にベッドから出てこようとしない幼い養女を見下ろして、正装に身を包んだギルバートはため息をついた。家の前ではもう1時間も前から車を待たせており、彼は権威ある遺伝学者たちの夕食会に出向かなければならない。
「妙に賢しいのも考えものだね」






、箱の中
のギルバートにする感情が形を変えていった、(あるいは形を持ち始めた)のは、彼がすなおに彼女に謝罪をしてからまもなくのことであった。
は彼のことを考えるとき、ひどく落ち着かない気分にさせられ、それは時によってうれしい気持ちであったり、悲しい気持ちであったり、苦しい気持ちであったりと、くるくると表情を変えるのだった。彼女は頭を抱えて考え込む、ということはしなかったが、それでも腕を組んではよくぼうやりとギルバートのことを思った。彼はいまだに幼い彼女を出世の道具に使ったことを悔いているようだったが、彼女にとってはそんなことはすでにどうでもよくなっていた。
ただ、彼と共に食事をし、会話をし、じゃれあう日々の、それ以上に幸福なことを見出せなかった。






#とある放課後
こんばんは、と、の定位置である助手席を占領しておきながらひどく無遠慮に声をかけてきたその女は、彼女の知らない人物だった。ハンドルを握るギルバートは丁寧に彼女の紹介をしたが、後部座席に乗り込み、ドアを勢いよく閉めたの心には残らなかった。「きっとにとてもよく似合うと思うよ。彼女とふたりで選んだんだ」さぁ開けてごらん、と言うギルバートを、はバックミラー越しにじろりと睨みつけたが、彼は始終涼しい顔をして微笑んでいた。
ピンクのリボンが結ばれた箱の中に入っていたのは彼女の髪の色によく映える、淡い色をしたチェックのワンピースだった。気にくわないな、と彼女は道路の向こうへ消えていく車を自室の窓から眺めながら考えたが、今回は鋏を持ち出すのは寸でのところで思いとどまった。彼女はもう壊すしか知らなかった子供ではなかった。壊すよりも効果的な方法を彼女は知っていた。
はなんとなく自分の指先を見つめた。鋏を握ることもなくなったが、かといって引かれることもなくなった、ひたすらに寂しいだけの指先。





#数年後、コックピット
「心配することなんてなかったんだわ」
彼女はぼんやりと呟いたが、それに答えるものはなかった。
計器の数値を機械的に写していた画面が割れ、真っ赤なスーツに身を包んだ同僚の顔が大写しになる。「準備はいいか?」
は首をかしげ、その拍子にヘルメットの重量をずしりと頭に感じた。
「ハイネ、楽しそう」
「楽しいはずないだろ」
「そうね、戦闘だものね」
「おまえ初出撃だろ、気ィ抜くんじゃねえぞ」
「モビルスーツ戦のシュミレーションでわたしに勝てたためしのないハイネには言われたくない台詞」
「うるせーな…っていうかそんだけ生意気言ってりゃ大丈夫か。心配して損したぜ」
「あれ、心配してくれてたの?」
「ったく…」
一方的に繋がった通信は、またもや一方的に切断される。それを言うためだけにわざわざ繋いだのか、と思わず口元が緩んだ。
コンソールに指を滑らせてエンジンの微調整をしていると機体が大きくがたりと揺れ、続けざまに細かな振動がシート越しに伝わってきたので、それでは機体がハッチへ向かいだしたことを知った。
シートに身を沈めて、彼女は目を瞑った。体全体を覆う小刻みな揺れは不思議と心地よい。出撃直前であるにもかかわらず、何もかもが遠い世界の出来事のようだった。






#ふたたび、箱の中
今頃何をしているのかな、などとふと思うことは今でもある。それで悲愴とも自己嫌悪ともつかない気持ちに苛まれることも。
届かない恋をした。
それは2歩歩くごとに道端で拾えそうな、どこにでもある話だ。言葉に表してしまうと、たいていの物事は陳腐に響いてしまう。そんな単純なものでは決してないのだが、傍から見ればきっとその程度のことと片付けられてしまうだろう。たとえ髪を振り乱し、泣き叫びながら主張したところで。それがたまらなく悔しかった。

「今でも好きなの、あいつのこと」






#そして、
は目を開いた。目の前にあるのは澄んだ緑の瞳ではなく、無骨な滑走路だった。遥か向こうに四角く切り取られた星空が見える。
操縦桿を倒しながら、運命とか宿命とかそういう言葉ではなく、たんに現実に呑み込まれていくのを感じていた。







(シュレーディンガーの猫によろしく)