床にかがみこんで、が物と物の隙間を一心に探っている。
 彼女が床に這いつくばったところなんてこれまで一度だって見たことがない。思い出せる限り、体術の授業でですら彼女が組み伏せられた光景など一瞬として記憶にないのだ。そういえば、俺は彼女に体術でも勝ったためしがない。こちらの力を巧みに受け流され、利用され、次の瞬間には床に叩きつけられるか体のどこかを締め上げられるかのどちらかだった。思わず自嘲の笑みがこぼれる。
 まさかこいつがあんな顔で笑うとは。
 目を瞑らずとも、細部までまざまざと思い描くことができる。俺の知らない場所で鮮やかに笑う。かなり前のものらしく、見せる笑顔はあどけない。その視線を追えば穏やかにほほえむ男の顔にたどり着く。幸福という言葉をそのままあらわしたような思い出の一枚。自然胸はしめつけられた。
「探し物?」
 俺の声には顔をあげたが、表情はいつもと変わらなかった。焦っているようには少しも見えない。こんな時でも彼女は人に助けを求めたりしない。
「別に」
 だからそっけない返事が返って来ても特に苛立ちはしない。悪意があって言っているわけではないのだ。それはアカデミー以降の付き合いで熟知していた。
 無造作にソファに腰かける。抗議の視線を感じたが、ここは談話室で、俺の方手にはコーヒーのコップが握られてい。
 追い出される言われなどどこにもない。すぐに捜索を再開した彼女の背中を、しばらくの間ぼんやりと眺めていた。







ってさ、人を好きになったことがあるのか?」
 なんとなく、思ったことが口をついてでた。彼女は答えない。
「俺はね、ずいぶんいろんな人を好きになったよ。両親と妹がふたりいた。その後何人も好きな女の子ができて、ふって、ふられて、気づいたら一人でこんなとこでうすくてまずいコーヒーをストローから啜ってる」
 彼女はやはり答えない。喉の奥で笑って、「お前は?」からかいの口調で続ける。
「あててやろうか」
「・・・」
「好きになったやつが一人だけいただろ」
 の動きがとまった。自分でも無意識のうちにやっていたようで、瞬時にとりつくろうように動きが再開された。あまりに予想通りの反応だったので思わず笑ってしまった。そして仮説は確信に変わる。どうやらこちらのペースにもちこめたようだ。
 しばらくの間、が床を這う音だけが周囲を鳴らしていた。不快なけだるさが消えない体はまるで自分のものじゃないようだった。昨日まったく眠れなかったのが原因だ。ソファに深く腰掛け、右腕で両目を覆った。このまま眠ってしまった方がいいような気もしていた。
が好きになった相手、どんなやつかあててやろうか」
 なんでもない風を装って沈黙を破る。
「黒髪で、年上だろ」
 ヴォン、とエアーコンディショナーが動作する音が聞こえた。
「そんでもって、遺伝工学の権威」
 エアコンの動作音が少し続いて何気なく腕をどけると、彼女が目の前に立っていた。正確に言えば浮かんでいた。強張った表情で両手を握り締め、憎悪の瞳で俺を映している。
 彼女の動揺した姿が見られるとは、期待こそすれ現実になるとは思っていなかった。思わず息をのみ、のんだ瞬間、背中に悪寒を感じた。
「ハイネ・・・」
 わずかに震えた声。
 拳が飛んでくる、と思った。しかし咄嗟におろした右腕に力をこめたときには彼女はいつもの仏頂面に戻っていた。彼女はふっと息を吐き、口をひきむすんだ。しばらくして出てきた声も毅然としたトーンを取り戻していた。
「返して」
「あのロケット、そんなに大事?」
「あなたに関係ない」
 憮然とした面持ちで言い放つに、半ば拍子抜けして俺は眉をひそめる。
「お前から全部奪っていったやつじゃなかったのかよ」
「だから何。ハイネには関係ない」
「あるね。だってお前、全然幸せそうじゃねえんだもん」
 間髪いれずに切り返すと、は口をつぐんだ。逸らされた視線は劣勢の証拠だ。覗き込むように彼女を見つめる。
「・・・同情ならいらない」
「んじゃお前、何なら欲しい?」
 暗闇をみているような瞳。涙のひとつもこぼしてくれたら簡単なんだけどな。彼女は何も答えなかった。ぎこちない口元の歪みに俺は自嘲を隠せない。
「お前さ、もっと幸せを望んでも、いいんじゃないの」
「幸せって、なに」
「たとえば、未来とか」
「わたしたちに未来なんてあるの?」
 重い声はかすれていてきこえにくいが、決して悲壮感を持って届いたわけではなかった。あくまで淡々としたいつもの彼女の声だった。まるでここにはいないみたいだった。あの時と、同じ。俺は笑った。
「一緒にすんじゃねえよ」







 手だけで合図すると、彼女は無言で俺の後ろをついてきた。いくつかの角を曲がり、たどりついた扉にパスコードを打ちこむ。難なくシャッターは開いた。
「ロケットを、返して」
 シャッターが閉まってからも、彼女は同じことしか言わなかった。ため息をひとつ。そうすると喉にひやりとした感覚を感じて、気持ちが悪いから服ごしにその物質に触れた。人差し指と中指で襟元をはだけさせれば、彼女にものすごい顔で睨まれたのがわかった。
「そんなに大事なものだったら、自分で取りに来いよ」
 無様なほど軽薄な笑いを浮かべながら、俺はチェーンに指を這わせる。
 彼女が身も世もないほどの恋をし、切望しているもの。けれど救いではないもの。
 


 俺の入り込む余地のないもの。



 ふいに激しい後悔が胸をついて出た。ごめん。言おうとして、次の瞬間には視界が暗転していた。彼女の回し蹴りが見事に命中し、床にたたきつけられたのだと理解するまでに時間はかからなかった。反射的に受け身をとっていた。みぞおちに鉛のような衝撃を感じたかと思うと、顔に強い衝撃を受ける。容赦ねえな、こいつ。
 顔に手を当てるとべったりと血がついた。視線をあげれば、息を荒らげ、憎悪、軽蔑、その他もろもろの負の感情を露わに俺を見下ろすの姿が目に入る。彼女は俺の横にかがみこむと、両腕で俺の襟首をとらえ、ぐいと引いた。かつてないほど近くにふたつの瞳があった。
「あなたなんて大嫌いよ、ハイネ」
 彼女は泣いていた。初めて見る泣き顔だった。俺は笑った。たぶん。そうさ、それでいいんだ、と。
 の手が首に回される。チェーンをまさぐり、留め金を探る指先は震えている。一体なにを守ろうとしているのか。
 細い背中に手を回して抱き寄せる。とたん、彼女が首に噛みついてきて俺は悲鳴を上げた。涙でぐちゃぐちゃの顔に俺の鼻血が混じっている。かわいいよなんて言葉は口が裂けても言ってやれねえな、と思った。


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