どれほど盛況な社交場の喧騒の中であっても、彼女にとって彼を見つけ出すのは容易なことだった。部屋の隅の方でも、テラスでも、庭の陰でも、とりあえず静かな場所に目をやればいい。にぎわう客の中でもひときわ退屈そうに、あるいは辟易としているのが彼であったから。
 人にはあまり公言できない特技だ、という自覚はもちろんあった。特に、某子爵との婚約達成にやっきになっている母親に知られたら卒倒されるに違いない。それでも彼女はその日もさりげなく彼の姿を目の端にとらえていた。しかしその日は不覚にもほんの少し目をはなした隙に彼を見失ってしまい、彼女は内心焦りながら視線を彷徨わせた。
「お前、俺のことが好きだろう」
 振り返ると、真後ろに彼女の求めていた美しい体躯があった。彼女は、ぞわり、と身を震わせた。彼の人を威圧する空気のせいか、彼女たちの周りからは人の波が引いたような錯覚がある。誰もが無意識に彼を避けるのだ。
「ばかな女だ」
 彼は明らかに嘲笑と見て取れる表情を浮かべた。とたん、彼女は頬が熱くなるのを感じた。なんという無礼。しかしこのどこか潔い不躾さにこそ彼女は惹かれていたのだと、気づくよりも先に手が出ていた。
 驚きはない。平手打ちのにぶい衝撃によって閉じられた目は、やがてゆっくりと開き、頬を真っ赤に染めて息巻く頼りない生きものを無言で見下ろしていた。










 なにをしている、と呼びかける声はあの時と同じ、どこまでも嘲笑をはらんでいる。
「ジュリエットがようやく寝付いたかと思えば、今度はおまえか、
 この家の暖炉は、冬の間中火を絶やさない。きまぐれな主がいつふらりとやってくるかわからないからだ。昼であれ、夜であれ、彼は彼の思うままに生きる。欠点と背中合わせになった彼のアイデンティティだった。
「姪の相手に、奥方の相手に。侯爵も楽ではないな」
 笑っているのか、それともただのひとりごとなのか。どこか疲弊の滲んだ声だった。赤々と燃える炎のかげになって彼の表情はうかがいしれない。見えたところで彼の中を見渡せたことはこれまでに一度だってないのだが。
 彼女は黙って寝まきの裾をひいて、彼の正面のソファに腰掛けた。つい先ほどまで姪の腰掛けていたそこはあたたかさを通り越してあつい。彼女の視線は自然と、この部屋唯一の光源である暖炉の中へ向いていた。なぜこんなにも彼を直視することに気後れを感じてしまうのか。彼女はまだわからないでいる。
「眠れないのか」
 はじめて明確に自分に対してかけられた声に、彼女はゆっくりと視線をあげた。しかし彼の視線もまた、暖炉の中に落とされているのだった。はぜた火の粉の行方になどたいして興味もなさそうなのに、その瞳の色はどこか真剣さを帯びて映る。ここではないどこかにいるのだ。
「眠れないのは、あなたではないのですか」
 言葉を発するよりも前に、ふたたび視線を火の中に戻してしまったので彼がその視線をどこへやったのか、そもそも表情を変えることがあったのかどうかすらもわからなかった。純粋な沈黙だけがあった。しばらくして、くちびるのはしで笑う気配があった。
「いやな女だ」
 腹を立てるよりも先に、なぜか安堵してしまう。
 彼女はソファに深く腰掛けなおすと、ゆっくりと目をつむった。まぶたの裏でも炎の影がゆらめいている。そこで眠る気か、と静かな声が聞こえ、彼女ははっきりと否定を口にした。いくら彼の孤独が手におえないものであっても、置いていくつもりはさらさらない。
「ばかな女だ」
 彼は言う。あのときと同じ。忘れもしない。彼はあの時、救済だと言ったのだ。

―いいだろう。救済してやるよ。俺は慈悲深いからな。

 世界でただひとつ、悲痛な声があるとすれば、それはまさしく彼の声だった。彼に直接伝えれば間違いなく一笑に付されるだろう。そのくらい根拠の薄い思い込みだった。それでも彼女はあのとき、たしかに彼の涙まじりの声を聞いたのだと思っている。
 あのとき、いったい彼は誰を救ったのだろう。
「待っていても、今日はもうなにも話さないぜ。ジュリエットの好奇心に散々搾り取られちまった」
 彼は冗談めかせて言うが、どこか倦怠感が漂っている。
「いいですよ、別に。お話を待っているわけじゃありませんから」
「…つくづく、俺も成長しないな」
「なんですって?」
「反省なんてするもんじゃない、って話さ」








 寄りそうことならできる。寄りそうことしかできない。自分はそのどちらなのだろう。
 そんなことを考えながら、彼女は今夜も見知らぬロンドンの夜に思いを馳せる。
 彼女には指先で触れることすら叶わない、彼のガラスケースの中に大切にしまわれた、おそろしく綺麗で、ひたすらに寂しいだけの、ロンドンの夜。