ランプを点滅させてメール受信を主張してくる携帯に指先で触れながら、サブディスプレイに写る名前をみつめた。もうすぐ授業が始まるので、返信するならば急がなくてはならない。もちろん、学生の中には授業中でも憚らず、机の下でカチカチと硬質な音をさせているものもいるが、便乗しようとはあまり思わない。不穏因子に眉をひそめるほどわたしは純粋でも潔癖でもないけれど、嘘と面倒くさいことと隠しごとは昔から苦手だった。手紙を書くくらいなら直接会いに行く。そういう性分だった。
『おまえさ、正直損することの方が多いだろ』
何度となくあのひとが口にした文句だった。ついこの前会ったばかりの男からも同じ指摘を受けた。純粋に驚くべきことだと思う。それを言った男がいけすかない奴だったのだけは、気に食わなかったけれど。
わたしは携帯にうっすらと指紋がついているのをみとめ、親指でこすりとる。そこでコツコツと机を打つ音を耳にした。音のしたほうに目をやると、先程までは存在しなかったはずの骨ばった大きな手が机の上を一定のリズムで刻んでいた。手から腕、腕から肩へと順番に視線を移動させて、最後に不思議そうに眉をもちあげている男の顔が視界に入る。彼の性別には無益な長いまつげにふちどられた瞳は遠慮なくこちらをまっすぐに見据えていた。

「前も思ったけど、注意力散漫すぎやしない?隣に座っても気づかないなんて。」

久々知くんは不思議そうな顔をしている。

「…そうかも」

知らん顔でやり過ごしてもよかったけれど、結局妥当な答えを返すことにする。

「おはよう」
「うん、おはよう」
「なんでいるの?」
「なんでって…俺もこの英語とってるんだよ」
「え、なんで。たしか久々知くんって学部違ったよね?」
「いや…だってこの授業、学部共通だろ」
「え?」

視線を机の上に落として、少しだけ考える。別にそこに答えが書いてあるわけではないのだけれど、不思議なことに、人はものを考えるときには大抵視線を外すものだ。

「あ…そっか。この授業って学部共通なんだっけ」

久々知くんはあきれ顔を作った。

「もう3ヶ月もたつのに…やっぱり注意力散漫なんだね」
「そんなことないよ」
「変わってるって言われない?」
「言われない」
「うそだね」

久々知くんは小さく微笑む。以前、しなびたカウンター越しにみたものと同じだった。
あの日はお互い気の向くまま、とりとめもない会話を交わした。わたしは初対面の人と気安くできる性質ではないので、そのことは素直に驚くべきことだった。あの古書店が親戚のものであること、そのつてで働かせてもらっていること、給料は安いけれど思う存分時間を自由に使えるから満足しているということ、大学生が楽しめる本はおいていないことやなんかをぽつぽつと話し、彼は本棚に身体をもたせて相槌をうっていた。雨の気配が充満した部屋で、それが唯一温度として耳に届いた。間違えて夜に顔を出した太陽のようだと思った。

「携帯…」
「え?」
「点滅しているみたいだけど、いいの?」
「ああ、いいの。授業始まるから」

わたしの言葉が合図だったかのように、教師が教壇に立ったのでそこで会話は途絶えた。教師が黒板に書き連ねていくアルファベットの羅列を脊髄反射的に書きとめていて、ふと、時折鼻につくアルコールの存在に気がついた。気にしなければ気にならない、その程度のものだったが、どうも発信源が久々知くんらしいということを知った。たぶん、制汗スプレーのにおいだ。
わたしはすばやくルーズリーフの端に、『運動部?』と書いて彼に回す。久々知くんは少し首をかしげて、シャーペンをルーズリーフに走らせた。しめった髪がこめかみにはりついている。『剣道』と簡潔に書かれた紙がわたしの手元に戻ってきた。それきり彼は自分のノートの方に真剣に取り組みだしたので、わたしは身体を黒板の方に戻す。あとはもう、ペンが紙の上を掻くかりかりという音だけだった。いかにも現実の音という感じがする。優等生なのだ。純粋でも潔癖でもないわたしは、片肘をついて文字の並びを眺めている。







(嫌がらせの至近距離)