彼がどこにいようと、なにをしていようと、わたしにはわかる気がしていた。それは自信といった枠におさまらない。もはや確信といってよかった。
「わたしはこの戦に加わろうと思う」
 ある夜のこと、荒れはてた辻堂で利吉は静かに告げた。その辻堂にはいまだに色濃く血の匂いが漂っており、ここで起きた惨劇の気配をまざまざと感じさせていた。
 わたしは黙って頷きながら、少し驚いていた。うまくいえないが、その戦は利吉の好む類ではなかったから。しかし利吉が参加するというのなら、わたしにはなんの異存もなかった。わたしに行動の指標があったとするなら、それは間違いなく利吉だった。
 いつもならそこで話は終わるはずだったが、そのときばかりはちがった。
「おまえはどうする」
 今度こそ、完全にわたしは驚いていた。利吉はかつてわたしに仕事内容について同意を求めたことなどなかった。
 わたしは利吉の表情を伺おうとしたが、ちょうどそこだけ暗がりになっていて判別できなかった。










 世の中に身を置くようになってわかったことはたくさんある。というよりも、子供の頃から感じていたものが明確に形をとるようになったと言った方が正しいかもしれない。見える位置が高くなって昔より多くのものが見れるようになったからだろう。手や足が枝のようにひょろひょろと伸びたところで、俺という人間がまるきり変わってしまうわけではない。
 そんなわけだから、はじめて会ったときの彼の年にじき追いつくからといって、この俺がまさか彼のように世の中を見れるようになっているなんてわけもなく、ただただ目隠しをされているかのごとく手探りで歩き続けている。つくづく、彼という人間にはため息をつかずにはいられない。
―いいさ、それがお前の選んだ道なら。
 俺が自らの従事する仕事について口を閉ざすようになったとき、彼は静かにそう言った。その顔は笑ってこそいなかったものの、かといって目を逸らすこともなく、まっすぐに傍にいてくれた。硝煙が俺の喉をつぶしても、じっと耳を傾けてくれた。
―おまえは兵法の名前は最後までひとつも覚えてくれなかった。だが、馬鹿じゃない。
 たとえば道端を流れる川、朝の太陽、夕風に揺れるススキ。俺が愛した人たちは、そんなありきたりのものを美しいと思うような人たちばかりだった。揃いも揃って利益よりささやかな幸せを大切にするような人たちだった。いつまでたっても教師ぶるのをやめない彼はその筆頭だった。そして今ごろ鍬を握っているに違いないぼさぼさ頭の男に、恰幅がよくいつも笑顔の商人も。
 俺はそんな人たちこそを守りたいと思った。ほとんどの人は信じてくれないだろうけど、今だってそのために生きている。




 そんなふうにして俺はかつての彼と同じ年を迎えることとなったのだったが、予想通りそれまでと変わることなんて何一つなかった。まったく同じ様子で息を吸ったり吐いたりしていた。目を覚ますのだって決まって山の中か合戦場だった。その代わり彼に会いに行くにはかなりの努力と偶然が必要になっていた。
 だから、相当の年月を経てようやく彼のもとへと向かうのが叶ったちょうどその日にあいつとでくわすことになるなんて、考えてもいなかった。










「ああ…きり丸くんか」
 気づかなかったよ。きみ、ずいぶん変わったね。
 開口一番、利吉さんはそんなことを言った。そりゃそうでしょう、もう何年も経つんですから。なんて言葉はすぐに浮かんできたけれども声になることはなかった。なんて言っていいのかわからなかったのだ。息苦しいと感じたが、それがなぜなのかもわからなかった。拳が動こうとするのを必死に押しとどめることで息苦しさを紛らわせていた。
 利吉さんの向かい側に座っていた彼は、嬉しそうに、でもどこか泣きそうな顔ですぐに縁側で馬鹿みたいに突っ立っている俺のもとへと飛んできていた。
 無事だったんだな。心配したぞ。また前よりも痩せたんじゃないか。
 そんな言葉を矢継ぎ早に浴びせられながら、俺は唐突にこの人に会いに来ることの付加的な意味に気づいて純粋に驚いていたりしたのだが、それでも視界の端に利吉さんをとどめておくことは忘れなかった。その最中に発せられたのがさっきの言葉である。ずいぶん不躾だなと思ったが、眉をひそめるだけにしておいた。
 警戒心もあらわな俺の表情に彼もようやく気づいたのか、一拍おいたあと、彼は俺の名前を呼んだ。たしなめるような、昔の彼を彷彿とさせる口調だった。俺はだまってうながされるまま利吉さんの近くに腰を下ろした。利吉さんは無表情にこちらをみていた。
 さっき俺が言葉を発することに躊躇したのは、もうひとつ理由があった。それは利吉さんもまた、あまりに変わってしまっていたからだった。わざわざ口に出すのも憚られるくらいの変貌ぶりだった。変化を遂げたというよりも、削ぎ落とされた、と言った方が正しいかもしれない。そしてさらに反応の困ることに、その脇にはちいさな影がひっそりと寄り添っていた。
「合戦上で拾ってね。身寄りがいないらしいから、土井先生にお願いしようと思って来たんだ」
 俺の視線に気づいて、利吉さんは淡々と説明した。昔きいたときよりだいぶ声がかすれている。
「すごい偶然だな、まさか二人来るのが重なるなんて」
 彼は穏やかにそんなことを言った。彼の穏やかさは、かつてなく俺を混乱させる。
「利吉さんによく似ていますね」
 彼が隣で凍りついたのが空気でわかった。いつだって言いにくいことを言ってのけるのが俺の役目だった。昔からずっと。
 しかし利吉さんは瞬きひとつしなかった。
「他人だよ」
 何歳くらいだろうか。その子供は強張った表情で床板を凝視している。




 それではわたしはこれで、と言って利吉さんが腰を上げたのは、それからすぐのことだった。もちろん彼はひきとめようとしたが、「仕事がありますので」と利吉さんはやんわりと、しかし譲らない口調で断った。話が弾まず、その場には気まずい空気がたちこめていたのも原因のひとつだったとしたら、責任は俺にあるのかもしれない。一割くらいは。
に会っていかなくていいのかい。もうすぐ帰ってくると思うよ」
「いえ、急ぎますので」
 有無を言わせない物言いだった。突然出てきた単語にも眉ひとつ動かさない。
 彼はすぐに諦めて、利吉さんを見送るために立ち上がった。俺も後に続いた。利吉さんは何かを考え込んでいるようだった。きっとこの人は言うべきことを何も言わずに去っていくのだろう。そう思っていただけに、最後の最後で彼が重たい口を開いたのには驚いた。
「ここはあまり安全とはいえないと思います」
 それでも内容は俺が想像していたものとはまるきり違っていた。
「なぜ」
「詳しいことは言えません。本当はこう言うことすら禁じられているんです」
 彼は少し目を伏せて黙っていたが、すぐにまたにっこりと笑って、「ありがとう、すまないね」とだけ言った。利吉さんはあからさまに眉をしかめた。
「土井先生。あなたの知識を必要としている城はいくらでもあります。そのためにやっきになって金をばらまいている城主を、わたしは何人も知っている」
「わたしはただのしがない隠居だよ」
「あなたくらいの年、父は合戦上を駆け回っていましたよ」
 利吉さんはかなり苛立っているようだった。
「土井先生。あなたほどの人なら、もっと利口な生き方ができるはずです」
 俺は自然と彼の表情をじっとみつめていた。腕を組んで、静かに利吉さんの視線にこたえている彼は、かつての彼を思い起こさせる。
 やがて彼は困ったように笑った。
「だってほら、こんなふうにきり丸が帰ってきたとき、困るだろう」
 俺は泣き出したい衝動に駆られた。しかしそうするよりも先に口が動いていた。
「土井先生。名誉のために言いますけどね、俺が帰る場所はここだけじゃないですよ」
 彼はふふっ、と笑った。優しさも何もかも超越した微笑だった。
「そうだな、乱太郎もしんべヱもいるもんなあ」
「そうですよ。俺、友達には恵まれてるんです。だから、」
 その先は続かなかった。なにを抑えようとしているのかはわからなかった。
 微笑む彼と、おそらくひどい顔をしているだろう俺の向かいで、利吉さんはため息をついた。
「忠告はしましたよ」
 利吉さんはあっさりとこちらに背を向けて、さっさと歩き出していた。俺も部屋の中に戻ろうと重心を右足に移したところで、ふいに背中が粟立つのがわかった。利吉さんの少し向こう側を、が歩いてきていた。彼らが顔をつき合わせるのはもはや必然だった。
 彼らはお互いに立ち止まって、少し驚いているようだった。表情は淡白そのものなので、心中は窺い知れない。やがて利吉さんが、の足元にしがみついているちいさな影をまじまじと見て、
「子供を作ったのか」
 動揺なんて微塵も窺わせない口調で声を発した。
 しかしそれから間髪いれず、たちの歩いてきた道を子供の集団がわっと駆けてきて、次々との足元にまとわりつきにかかった。だれ?おきゃくさん?せんせーのおともだち?それぞれが好き勝手に口を開くものだから、たとえに答える気があったとしても口を挟む隙などなかっただろう。やがて客人の氷のような視線に気づいた子供たちは、気まずそうに顔を見合わせた。がなにやら声をかけると、足元の子供たちは弾かれるようにもときた道の方へと走っていき、瞬く間に竹林の中へと消えていった。
「子供って言うのは不思議な生き物よね。いつも驚かされてばかり」
 利吉さんは肩をすくめた。そんな話をしたいんじゃない、とでも言うように。
「久しぶり」
「うん」
「生きていたんだな」
「あなたも」
「なんとかね」
「よかった」
「で、あの中におまえの子供はいるのか」
「いないわ。ここにいるのは、みんな身寄りのない子供たちばかり」
「そうか」
「いたとしたら、どうだっていうの」
「さあ・・・どうだろうな。よくわからないが、少し気になっただけだ」
「そう・・・それであなたは、どうしてここに?」
「あとできり丸くんにでも聞いてくれ」
「・・・きり丸も、来ているの?」
 の視線が俺をとらえた。するとたちまち、彼女の顔は泣き顔とも笑顔ともつかない表情で歪んだ。俺はそこはかとなく気まずい気持ちで右手を小さく掲げ、挙句振ってなどみたりする。利吉さんはそんな俺を彼女を交互に見ると、彼女の脇をすり抜けて俺たちの視界から消えた。
 隣にいた彼はいつのまにかいなくなっていた。








「きり丸は、わたしが利吉についていくと思ったんでしょう」
 その夜、子供たちを寝かしつけた後、二人で縁側に座ってとりとめもなく話をしている最中に唐突に彼女がそう言ったので、俺はたちまち居心地が悪くなった。図星だったのだ。俺はごまかすように軽薄な笑みを浮かべた。
「わたしの信用も落ちたものね」
 伏せ目がちにそう彼女はそう零した。
「人の気持ちなんて信用できない」
 彼女は肩をすくめてみせた。
 いつもならここで会話はおしまいなのだが、どういうわけか今日の彼女は多弁だった。彼女は静かに語りだした。
「この人がとなりにいれば大丈夫。もう何も憂うことなんかないんだって、昔のあの人はそういう雰囲気を持っていたの」
 いつも変わらずそこにあった。なのにいつからかそれは消えうせてしまい、ただふたりで肩を並べて黙々と歩いては、呼吸をするように人の命を奪う日々が続いた。
 彼女が過去について話すのはこれがはじめてのことだったが、俺はむしろ奇妙さしか感じていなかった。彼女の横顔はただひたすらに透明で、俺は誰と話しているのか時折わからなくなった。それほどまでに彼女はひとつの終わりをむかえていた。
「たぶん、迷いを感じていたのね。わたしたちふたりとも。わたしはそれに気づけなかった。自分が迷っているということすら理解していなかった。見た目よりずっと、子供だったの」
 いまさら後悔したところで、見失った影が彼女の隣に戻ってくるわけでもない。
 だから俺がひたすら考えていたのは、終わりが音を立てて記憶になる瞬間を、はたして彼は目にしたのだろうかということ。ただそれだけだった。
 もうそれ以上話すことはないということなのか、彼女は空を指差しては、一転、いたずらっぽい表情を浮かべる。
「ほらきり丸、満月よ。月のことをかくし言葉でなんて言うんだっけ?」
 ずっと前から、俺たちの間でお決まりになっているかけあいだった。今思えば、俺は相当なおちこぼれだったのだ。月のかくし言葉も覚えられなかったなんて。
 なんて遠くまで来てしまったんだろう。
「あんたみたいにはならない」
 俺の声はまるで別人みたいに響いた。
「いつかきれいな奥さんもらって、子供もたくさん作って、幸せに暮らすんだ。絶対あんたみたいにはならない」
 彼女はじっとこちらを覗き込むように目を向けている。少しして、
「それは素敵だね」
 と言った。ひたすら優しいだけの声だった。
「あんただって、まだ遅くない」
 彼女は、よく目を凝らさないとわからないくらいかすかに瞼を震わせた。
 一番言いたかったことは言えなかった。たとえば、生まれてからひと月も経たずに死んでしまった彼女の子供のこと。誰よりも彼女を想っていて、それゆえに手を振り払うしか方法の知らなかったあの男のこと。俺がかつて抱いたみにくい嫉妬のこと。この狂った世界のこと。そして、それらすべてを受け止めてなおも微笑む、彼のこと。
 いつだってそうだ。俺は回り道しかできない。ひどいときは心地よさすら感じてしまう。それでも彼女にはちゃんと伝わったのだとわかった。
「それは、素敵だね」
 彼女を特徴付けるその悲しい微笑みを目にしても、俺の心に憎しみがこみ上げることはもはやなかった。大人になったからではないと思う。苦しむのにも悲しむのにも赦すのにも十分な年月が流れた。ただそれだけのことなのだ。