彼が手を上げるのが先だったか、それとも自分が彼の姿に気づいて首を傾げるのが先だったか。些細過ぎて気にする必要もないことはいくらだってある。久々知が隣の椅子を引くと、三郎は机の上に無造作に置かれていたグレゴリーをこれまた無造作に足元に下ろした。バッグの行方を目で追ったついでに三郎の素足が視界に入る。短パンにスニーカー、シャツという三郎のいでたちは、男の視点からでも息をのむほど格好よかった。雑誌から抜け出してきたとはまさにこのことを言うのだろう。しかしどうやったって自分にはできないファッションだ、と久々知はしみじみと思う。
「三郎ってこの授業とってたっけ」
「とってたぞ」
「今まで一度も見かけたことないけど」
「企業秘密」
 にやりと笑う。それだけでピンときた久々知は盛大にためいきをついた。ではなぜ今日に限っているのか。大方、今まで代返を頼んでいた女の子と別れたとか、今日はたまたまくる気分になったとか、そういうくだらない理由だろう。そもそも理由などないのかもしれない。
「兵助くんこのあとおひま?すっげスタバ行きてーんだけど」
 友人の仲介がなければまず間違いなく係わり合いになどならなかったであろうタイプの人間というのはよくいるが、三郎はその筆頭に挙げられる。久々知の三郎に対する第一印象といえば一年生も始まったばかりの飲み会で抱いた、『女性関係にだらしない男』というどうしようもないものだけだった。それだけでもうすでに好意なんて一筋も混じりこむ余地などなかったのだが、さらに授業に全くと言っていいほど出席しないために、その姿を見た日には何かいいことが起きるというジンクスを持つ座敷童子的な存在であることを知り、ますます胡散臭い人物だと確信を抱くようになったのだった。知れば知るほど眉をひそめる羽目になるこの男と会話をするようになるなど、はじめは微塵も予想していなかったのだが。
 しかし付き合ってみればすぐに警戒は解けた。一筋縄ではいかないというのは想像通りであったが、少なくとも芯が通っており、ユーモアにあふれ、頼りがいがあり、妙に頭の切れる奴だということはすぐにわかった。破滅的に堕落した女性関係を築いているにせよ。
「五時からバイトだから、それまでならいいよ」
 もちろん、だからといって彼の胡散臭さが身を潜めたわけではなかったが。








 結局出席表にまるをつけただけでルーズリーフすら出そうともせず、90分間机に突っ伏し続けた三郎は、開口一番、はらへったとぼやいた。朝から何も食べていないのだと言う。
「単位とか成績とか、そういう問題じゃなくて、人間としてどうなんだよ」
 久々知が説教とも呆れともつかない言葉を話す間、三郎は横でサンドイッチにかぶりついていたのだったが、時折その切れ長の目にはきらりと光が浮かんだ。疑いようもなく、彼はこの状況を楽しんでいるのだった。この場合正しいのはサディストという分類か、それともマゾヒストという分類か。三郎といると底なし沼を歩いているような心地に襲われる。まさしく竹を割ったような男である竹谷とは随分な違いだ。
「竹谷な、」
 久々知の心を読んでいたのか、というタイミングでそれまでの説教を全て無視して三郎が口を開く。久々知は一瞬どきりとしたが、口の端についたトマトの汁を親指でぬぐった三郎はいたって自然な様子である。
「もうすぐ彼女できるぞ」
 予期せぬ言葉に、久々知は言葉を見失う。
「…なんだって?」
「竹谷に彼女ができるぞって」
「なんでそんなことわかるんだよ。昨日竹谷に会ったけど何にも言ってなかったぞ」
 あの竹谷がそんな幸福な状況を黙っていられるはずがない。
「だから、もうすぐなんだよ」
 にやりと笑う。
「当人たちが気づくより周りの方が先に気づくってパターン、あるだろ?」
「違うかもしれないじゃないか」
「いーや違わないね。この俺が言うんだから間違いない」
「…そうかよ」
「だからさー覚悟しといた方がいいぞー。壮絶なのろけ話に」
 いかにも竹谷がやりそうなことだ、と久々知はすこしぬるくなったブレンドをすする。彼は一年を通じてあまり冷たい飲み物を飲まない。身体を冷やすことを極端に嫌っていた冷え性の母親の影響だった。運動後以外ではもはや冷たい飲み物への欲求が起こらない身体になっていた。
「誰?」
「一ヶ月以内にはわかるからそれまで楽しみにしとけよ」
「えらく具体的だな」
「俺の感は当たるんだ。当たったらなんか奢れよ」
「やだね」
「はは。とりあえずカップル成立したら竹谷囲んで飲もうぜ」
 思いっきりからかってやる、と三郎はさも愉快そうに笑うのだった。久々知はその様子を見ながら候補となる人物の顔をいくつか思い浮かべようとしてみたが、どれをとっても竹谷とは色っぽい雰囲気になりそうもない少女たちばかりだった。おそらく自分の知らない人物なのだろう。そうすると三郎はその情報をどこで仕入れたのかが気になるところだが、どうせまた企業秘密の一言で済まされるとわかっていたので、久々知は竹谷の幸せを願うにとどめた。個人的に、竹谷は彼女を作るにはまだ幼すぎるような気もするのだが。
「お前いま竹谷の兄貴の気分になってるだろ」
 音を立ててアイスコーヒーを啜りながら、三郎は呆れた視線を向けていた。久々知も漠然とそう思っていたが頷かなかった。
「そういえば、、今朝男と一緒にいたぞ」
 唐突に、またもやあらぬ方向から話は飛んでくる。脈絡と言う単語を知っているのだろうか、三郎は。しかし一瞬で思考回路を止めるには十分だった。「…なんだって?」
「だから。男といたんだよ。が」
「なんだよ、それ。そいつが竹谷だってことなのか」
「ちげーよ。なんかすっげーやな感じだった」
「やな感じ?」
「格好がさ、ぜってーあれブランドもんだぜ」
 対抗意識でも燃やしているのか、三郎は口を尖らせる。「ブランド?」
 久々知はファッションに関してあまり興味がないのでいまいちぴんとこなかった。目の前にいるこの男とどれだけの差異があるというのか。とりあえず金持ちなのかな、という感想を抱くだけだ。そもそもブランドという言葉と、あのいつもやる気のない格好をしている件の女とではまるで繋がらなかった。
「彼氏?」
「しらね」
「きかなかったのか」
「話してねーし。ってゆうか俺は別に関係ねーもん」
「なんだよ。三郎は関係あるんじゃないのか」
「なんで?」
三郎は首を傾げる。
「ないだろ」
 咄嗟に口をついて言葉が出そうになって、しかし寸前で妙に気恥ずかしくなってねじ伏せた。子供じゃあるまいし、とごまかすようにコーヒーでのどを潤した久々知を、三郎は何食わぬ顔で見ていた。
「…そうなのか?」
「そうだよ」
「俺は、てっきり」
「はは。ありえねー」
 どこまでもさらりと三郎は答える。
 しかしふいにぱっと表情をかえてみせた。「なんにせよ、」わざとらしいまでに悪戯っぽく笑う。「もしそうだったとしても、やっぱり関係ねーよ。俺には」
 久々知は呆れて声も出なかった。それでも一方で、らしいな、とも思ったりする。欲しいものは奪ってでも手に入れる。いかにも彼のポリシーとしてしっくりしすぎている。
「いつかお前、訴えられそうな気がする」
「そうなったら助けてな。法学部の兵助くん」
「ぜってーやだ」
 三郎は笑った。いたって穏やかに、くしゃりと、顔全体で笑う。いつも見ているはずの笑顔だ。なのになぜだかいっそう胡散臭さが増したような気がして、久々知は思わず息を呑んだ。
 そんな久々知の様子を知ってか知らずか。少しの沈黙をはさんだ末に、三郎はごく淡々と口を開いた。「俺はね」
「孤独な人間を癒せるのは、やっぱり孤独な人間だと思ってる」
 口許ははっきりと嘲笑を形作っていたが、三郎の口調はこの上なく平然としているのだった。 あまりに話している内容とは不釣合いで、あまりに馴染まない。 言葉を失っている久々知を見て、三郎はさらに口の端を吊り上げる。
「孤独なんて影みたいなもんだろ」
 変わらず口調に温度の混じる様子はない。その一方で表情だけは実に愉しげなのだった。
「孤独って…誰が」
「さてね」
「おまえのこと?」
「…さてねぇ」
 三郎は揶揄するように笑った。頭の切れる男。呆れるほど毒舌で、人一倍洞察眼をもった、厄介な男。
「言っとくけど、これ警告だからな」
「…なに企んでるんだよ」
「警告って言ったろ。宣戦布告とは違うぜ?」
 奇妙な違和感がこみ上げてくる。久々知が黙っていると、三郎はことさら愉快そうに笑った。
「いいねぇ、その顔。やっぱ俺、人が困ってんの見るの好きだわ」
「お前さ、結局何がしたいわけ?」
「当ててみろよ」
 三郎は椅子を引いて立ち上がった。反射的に視線は彼を追って動くが、身体は凍りついたように動かなかった。彼の不透明な物言いに苛立っていたわけではない、と言えば嘘になるが、どちらにせよ彼についていこうという意欲はまったく頭をかすめもしなかった。三郎はトレーを手に取ると、最後にふと思いついたように付け加える。
「おまえ、竹谷といい勝負だよ」
 そうしてあっさりと去って行った。姿が見えなくなって、思い出したように時計を見ると、授業が終わってからまだ一時間もたっていなかった。