コンサートホールの客席は満員だった。人の気配で充満している。なのに全員が息を詰めているので、どこか現実感に欠けた。なぜかといえば全員がステージ上の演奏の行く末を見守っているからだった。
 それはピアノを奏でるという行為ではなかった。ピアノの音によって、人の心を揺さぶる、暴く、そして救済する。正確にいえばそういった行為だった。音楽というものに潜む魔力をここまでありありとみせつけられたのははじめてだった。そして彼が終着点にと望んだものだった。
 ホールの空気を震わせていた音がとまる。一瞬の静寂。そして続けざまに起こる喝采の嵐。スタンディング・オーベーション。
 彼はその中心で呆然としていた。拍手も、立ち上がることも、ましてや立ち去ることもできなかった。呼吸も、瞬きすらもできないのだ。全身が麻痺していた。唯一眼球だけがステージ上の女の姿を追っている。晴れやかな顔をした彼女は、ドレスの裾をひきながらステージを降りた。そしてまっすぐに彼のもとへとやってくる。
「楽しかったわ」
 彼女はにっこりと笑った。上気した頬に、厭味の色はまったく浮かばない。
「また、たたかいましょう」
 彼女の腕が彼の首に回される。まるで幽霊のようだ。彼は動くことができない。
「わたしたちはそのために生まれたのだから」
 にいさん。
 彼女のくちびるが動くのをみて、彼は絶叫した。









 腕がない、と彼女は呟く。彼はどきりとして、同時になぜどきりとしなければならないのか不思議に思って、後ろを振り返った。半分しか血の繋がらない妹が、一枚の絵画の前で立ち止まっていた。
「どうしてこの人は腕がないのかしら」
 彼女の隣に並んで、彼は問題の絵を眺めた。はからずも彼女と同じ姿勢になる。
「さあな」
 自分より背丈のある兄を、彼女はゆっくりとした動作で見上げた。
「これは抽象画だ。あまり深く考える必要もないだろう」
「抽象画って、考えるためにあるんだと思ってた」
「それはおまえの自由だ。だが、意味を探るより、なにを感じるか、だと思う」
「…なにを感じるか」
 視線を絵画に戻して、彼女は考えをめぐらせているようだった。彼はその横顔を眺めていた。鏡で見る自分のものと似ているようにはあまり思えない。昔はよく双子と間違えられたものだったが。
 ややあって、
「腕がない人の気持ちって、どんなのかしら」
彼女は小さく呟いた。
「そもそもどうしてなくしたのかしら」
「さあな」
「事故?」
「現実的に育ったな」
「じゃあ…誰かに、もぎとられたのかも」
 彼は眉をひそめた。
「…残酷なことを」
 残酷。彼はその言葉をかみしめる。
 彼はその場を離れた。後から彼女がついてくる気配があった。つかず、離れず、微妙な距離を保って歩く。一度、シャツの袖口を遠慮がちに掴んできた彼女の指をふりはらったことがある。あまりに自然な動作だったから、はたから見たら自然な解離であったようにみえただろう。彼女自身そう思っていてもおかしくないほどに。しかしそれ以来二人の間には安定した距離が横たわることとなった。
 兄さん、と呼ぶ声がする。彼はゆっくりと振り返る。
 なぜこの子はいつだって泣きそうな顔をして自分を見るのだろう。









 時の流れから置き去りにされた場所、という言葉が真っ先に頭に浮かび、そのあまりのありきたりさに肩をすくめたりもしたのだが、別に独り言が高尚である必要もないのだ、と納得するのもやはりひとりな午後三時すぎ。世の中の大体のものはそういうつまらないものの繰り返しでできている。一見新鮮に見えるものだってn番煎じであることを巧妙にかくしているに過ぎない。
さんは音楽をやらないのですか」
 ふいにカウンターの向こう側から声がかかり、彼は窓の外に向けていた意識を現実世界に戻した。それまで黙々とランチタイムで使われたコーヒーカップとソーサーを棚にしまっていたマスターが、それでも手は休めないままに対話者としての意思を示して彼の方を見ていた。
「やりませんよ」
 自分でも驚くくらいあっさりとした声が出た。しかし頭は感心するよりもマスターに対して空気のような男だと感想を抱くことを選んだ。つつましいというのとも違う。どこか得体の知れない感じがする。他人から敬遠されることはあっても、自身がそのような感情を抱くのはまったくはじめてのことだった。彼は腑におちない心地だった。
「ご家族はみなさんされているとお聞きしましたが」
「そうですね。でもはしないんですよ」
 そこで気づく。コーヒーカップからひとくち苦い液体を飲み下すと、彼はうすく笑った。忍ばせたナイフに手をのばす心地にも似ている。
「ああ…つまりあなたは、の家族は以外の全員がなにかしら音楽にたずさわっているということを、自身の口から聞いていたわけですよね。なのにわざわざわたしに聞いた。直線的じゃありませんね」
 マスターは笑顔こそ崩さなかったが、答えなかった。彼の方でもそれで問題はなかった。
「いいですよ、話しましょう」
 四肢から感覚を奪うように、記憶は甦る。ゆるゆるとしめあげる。
「わたしがから音楽を奪ったんですよ」
 自分でも滑稽なほどなめらかな声が出た。
「昔はね、もピアノをやってたんですよ。でも、わたしがやめさせたんです」
 驚いたでしょう、というと、そうですね、と相槌にしかならないものが返ってきた。どうにもはっきりしないのだ。しかし口だけはまるで風に流されているかのように淀みなく動いた。

「わたしの両親はふたりともピアニストでした。家には音楽が溢れていました。だから、わたしも音楽と戯れることに何の疑問も持たなかった。一年遅れて家にやってきたも同じでした」

「子供の目から見て、両親の仲は良好そうに見えました。食卓に険悪な空気が流れていたり、しょっちゅう諍いをしていたりだとか、そういった記憶はまったくありません。まあ子供の目につかないところでは行われていたのかもしれませんけどね。だから突然離婚するときいたときには本当に耳を疑いました」

「今思えば、もしかしたら母は父に不満を抱いていたのかもしれません。母は昔から名のあるコンクールで入賞していて相当実力のある人でしたが、父は率直に言って才能に恵まれていませんでしたから。最期まで演奏活動だけでは生計を立てられなかったんです、あの人は。生来、気性も穏やかでしたしね。争いごとにはてんで情熱の向かない人だったんですよ」

「もちろん、この世界では才能が認められる人なんてほんの一握りです。母だってそれはわかっていたはずです。それに真の愛情は才能や肩書きに左右されるものじゃありません。それでも、母の愛人が世界的に有名なバイオリン奏者だったと知ったら、やはり疑ってしまいますよね。しかもの実の父親が、その人だということになると」

の父親と母親のもとに引き取られることになりましたが、わたしはわたしの父親についていくことにしました。母は反対したのかもしれませんが、私は幼かったので詳しいことは覚えていません」

「子供の目に、たちの家族は希望に満ち溢れているように見えました。才能、と言いかえてもいい」

「だから、壊してやろうと思ったんです。と別れる日に」


「お別れだよ」「おわかれって?」「もう会えないってことだよ」「あえなくなるの?」「そうだよ」「やだよ。わたし、おにいちゃんにあいたい。おわかれなんてやだよ」「わかった。じゃあ、会おう」「ほんと?」「うん。本当。でもはピアノをやめなくちゃいけないよ」「どうして?」「どうしても。がピアノをやめないと、ぼくたちは会えないんだよ」「そんなのやだ」「じゃあ約束して。もう二度とピアノは弾かないって。お母さんたちになんていわれても、怒られても、絶対に弾かないって」「ちょっともだめ?」「だめ」「できるかな」「ぼくに会いたくないの?」「あいたいよ」「じゃあ、そうするんだ」「うん、わたしピアノはもうひかないよ」「絶対に?」「ぜったいに」


「わたしは昔から賢しい子供でしたし、がわたしにばかみたいに懐いているのは知っていましたからね。まあ、そんな言葉だけで思い通りになるなんて確証はありませんでしたけど」
 まさか、本当にやめるなんてね。口元で笑う。思っていたよりも自嘲気味に響いたので、さらに笑いはこみ上げた。
「だから、は音楽をやらないんですよ。ちょっとした復讐心です。才能に溢れた両親から生まれた子供が、凡人の山に埋もれている。の両親の悔しそうな顔が眼に浮かびます」
 彼はふいに喉の渇きを感じて、コーヒーカップの中身を干した。するとマスターはさりげなくケトルに手を伸ばす。「コーヒーで構いませんか」
「いや、もう十分ですよ」
「まあ、少しくらいおもてなしさせて下さい。さんのお兄さんなのですから」
 細い目の端には微笑が浮かんでいる。それだけで拒絶の言葉を失うには十分だった。彼はやはりどこか腑に落ちない思いを抱きながら、しばらくの間フィルターのたてる微かな音の行方を耳で追っていた。
 かちゃりと音がして目の前に白いコーヒーカップが置かれると、それが合図だったかのように彼は口を開いた。
「兄、か」
 不自然な沈黙をはさんだ末、ぽつりと、ためいきにも似た微かな声がこぼれる。
「もしかしたら、わたしは怖かったのかもしれない」
 彼はそこでつかえたように言葉を切った。レトロな音がして喫茶店の扉が開いたからだった。過剰に反応した心臓に息を詰める。そんな彼の様子に気づくはずもなく、はスツールをまわして彼の隣に腰掛けた。
「なんで学校に来てないんだって、おこられちゃった」
 携帯をバックの中にしまいながら言う。疲れ切った声色をしているのは、よほど面倒くさい相手だったということだろうか。
「授業があったのか」
「今日は全休。あっちが勝手に怒ってるだけ」
「なぜ怒るんだ」
「知らない」
 ふてくされた様子でアイスティーのストローを咥える。しかし彼はそれよりもマスターの表情の変化に目を凝らしていた。なぜあんなことまで話してしまったのだろうか。およそ感情の変化の混じらない微笑を眺めながら、彼はひたすら落ち着かない気持ちに支配されている。









 薄膜のかかった世界の向こう側から声がきこえ、彼はゆっくりと意識をもとに戻した。目を開けば、誰もが寝起きに視界に入れたくない人物ナンバーワンに選ぶであろう男が彼を見下ろしていた。彼はすぐさま思いつく限りの罵倒を浴びせてやろうと口を動かしかけたが、その男があまりに心配そうな色を浮かべていたものだからすぐさま言葉を失った。
「うなされていたぞ」
 帰宅後、食事をする前に少し休もうとソファに身を沈めたところまでは覚えている。大方、そのまま眠ってしまったということだろう。CDプレイヤーからはちいさなボリュームでピアノ曲が流れたままになっている。リスト。なかでも特に好きな曲だ。彼は髪をかきあげ、身体を起こした。
「いつもこんな調子なのか」
 いつのまに移動したのやら、今度はキッチンの方から声がきこえた。何のことだ、と問うまもなく、思い当たる節などひとつしかない。彼は方頬だけで笑った。男は呆れ顔を隠そうともしないで部屋に戻ってきた。
「家事はいつも親父の仕事だったのか」
「交代でやっていたな」
「ならまともな生活もやろうと思えばできるんだろう」
「さて」
「こんな生活続けていたらいつか身体を壊すぞ」
「かもな」
「神童が、きいて呆れる」
「おまえ、歳をわかっているのか。二十代の神童などきいたことがない」
「しるか」
「天才という言葉を使いたくないだけだろう」
「ばかたれ。おまえなんぞが天才であってたまるか。青白い顔しやがって」
 めしくらいちゃんと食え、と男はがなる。彼は机の上に無造作に放られたちいさなパンの袋に目をやって少しだけ笑った。
「心配しているならしているで素直にすればいいだろうに。可愛げのない男だ」
「それが!心配される側の!態度か!」
 ばかたれ、とふたたび怒鳴る。もはや男のアイデンティティとなっている言葉だ。
 相変わらずだ、と、何か皮肉のひとつでも言ってやろうと思ったところで、彼はふいに呼吸を止めた。
「文次郎」
 声は震えている。自分でもわかるくらいに。
「おまえ、なぜここにいる」
「なぜ?」
 男は顔をゆがめる。悲痛と絶望の交じり合った表情だ。そして、気づく。これは“今”ではないと。
「理由がいるのか」
 男の表情は次第に怒りへと昇華される、はずだった。あの日男は荒々しく扉を閉めて彼の元から去っていったのだ。
 しかしその光景を見せつけられるよりも早く、今度こそ彼は目を覚ます。
 薄膜のかかった世界。ボリュームのしぼられたシューマン。机の上で手付かずのまま放られたちいさなパン。そして部屋の大部分を占拠するピアノ。あの筆舌に尽くしがたいほど不器用で率直な男など、どこにもいない。いるはずもない。彼はソファから立ち上がり、窓辺に寄ってカーテンに指をからめた。そうして窓を開く。見知らぬ風景。見知らぬ風。
 はるか彼方、異国の地で、彼はふいに帰りたいと思う。ひとつ、ふたつ。思い浮かんだ顔があったが、そのどれも彼自身がはらいのけたものだった。意図的にではない。そうせざるを得なかった。他のやり方を知らなかった。いつしか彼の足にまとわりついて離さなくなったものだ。
 彼は少しだけ笑った。あの日自分は空を見上げただろうか。ただそれだけを思い出そうとしていた。









 ふたたび。彼はコンサートホールの客席にいた。しかしステージには誰もいない。黒々としたピアノがひっそりと控えているだけだった。彼を待っているのだ。恋人のように、母親のように。彼がくるのを待っている。
 彼はおもむろに立ち上がった。いつだったか身体を支配していた麻痺はどこにも感じられなかった。そう、あれは夢だったのだ。その証拠に妹の姿は見当たらない。きっとなくした腕でもさがしているのだろう。
 歩いている間、見知った顔が視界をよぎった。濃い隈をたくわえた男だ。隣にはその男とは最高に相性の悪い例の男もいる。こんなのもきっと幻影だ。彼は無言で通り過ぎる。
 椅子を引き、鍵盤に指をのせる。ひやりと冷たいそこは彼だけの空間だった。誰の侵入も赦さない。全てを跳ね除ける。時には彼自身をも。
「兄さんとたたかえるのは、わたしだけだったのに」
 耳元で女が囁く。こわかったのでしょう。頭を振れば、まぼろしは一瞬にして消え去った。
 誰も彼に追いつけない。それは白雪のような孤独。