彼女が去った後、しばらく俺はその場から離れられなかった。ただただ、彼女の消えていった先を見ていた。見ているしかできなかった。縫いとめられたように足が動かなかった。
 やがて、夕陽の紅と夜闇の紫紺が交じり合う頃、すぐ隣で名前を呼ぶ声を聞いた。伊作だった。
「学園に戻ろう」
 俺は、ああ、とか、うん、とか、そういう相槌に類する返事を返したように思う。
 伊作は“帰る”という言葉を使わなかった。その頃にはもう、学園は俺たちの帰る場所ではなくなりつつあった。
「長次は?」
 歩きながらたずねると、伊作は目を伏せ、ゆっくりと首を振った。俺はため息を吐いたが、答えは最初からわかっていたように思う。つまるところ、惰性で発せられた問いに過ぎなかったのだ。
 はじめは小平太だった。卒業試験を受けに行ったきり戻ってこなかった。それからすぐに長次が周りの制止をふり切って飛び出した。
 大人たちは苦渋に満ちた色を浮かべている。それでも頑なに口を閉ざしている。なぜ小平太が帰ってこなくなったのか。なぜ長次も帰ってこれないのか。なぜ彼女が、身元を明かそうともしないどこかの城の兵たちに、あんなふうに連れて行かれなければならなかったのか。誰も話そうとしない。世界はどんどん俺たちの手に負えないものになっていく。戦乱はほんの少し瞬きをすると、あっという間に拡がっている。
「伊作」
 なあに、と静かな声。
「おまえだけは、生きてくれ」
 伊作は息をつめる。驚いたようだった。何かを言おうと、口を開く。
 それでも、その先は続かなかった。代わりに息を吐き出して、目を伏せた。
「…生きられるのかな」
 俺は何も言えなかった。命はこんなにも簡単に失われてしまう。それでもせめてこいつにだけは生きていて欲しいと思った。
 つまりこのとき俺はすでに彼女の命をあきらめていたということになるのだが、無慈悲な事実に気づいて愕然とするのはずっとあとのことになる。







 絹を引き裂くような、といったら古い人間だといわれそうだが、まさしくそんな悲鳴が響いて、俺はまどろみから引き戻された。
 ゆうに200人は入ろうかという、大教室である。満席というわけではないが、半分以上の席を新入生が埋めている。一般教養の授業中なので顔ぶれは様々だ。
 その顔すべてがすべて、あるひとつの方向を見つめていた。教授すらもチョークをもった格好のまま、唖然とそちらを凝視していた。
 俺は彼らの視線の先を追ってふり返って、たちまち眉をひそめた。
 だった。
 は青ざめた顔のまま、しばらくぼうぜんとしていたが、やがて全員の視線に気づき、一転、真っ赤な顔になり、「…すみません」ちいさな声で言った。そして赤い顔のまま顔を伏せる。
 たちまちどっと大笑いが起こった。教授の方も、怒るというよりは呆れているようだった。
「授業中に居眠りした、罰だぞ」
 俺は隣の伊作と顔を見合わせて、ちょっとだけ頷いた。予感のようなものだった。







 はじめは夢だった。
 記憶にある限り、子供の頃からずっと見る夢は一貫して同じだった。日本昔話に出てくるような世界だ。そしてそこには俺が暮らしていた。起こる出来事は様々だったが、登場人物や場所はいつも同じだった。
 そんなだから、夢というのは別の世界に繋がるものだと思っていた。眠るということは他の世界へ旅立つことなのだと信じて疑わなかった。赤道の全周は4万キロだとか、地球は自転しているだとか、そういった事実よりもずっと確かなものだった。
 両親ははじめ子供の言うことだと笑ってあしらっていたが、明らかに子供が想像では作れそうもない現実的な非現実世界の描写が食卓に上ることが増えるにつれ、次第に不安で顔を曇らせるようになっていった。そうして俺は夢について誰にも話さなくなった。昼と夜、二倍の時間を生きていたせいか、それとも生来の性質なのか。俺は同い年の子よりずっと早熟だった。
 それからずいぶん時間が流れた。中学の入学式、俺は伊作と出会った。そしてはじめて夢の世界は明確な形を持って俺の中に現れたのだった。
 過去の記憶。
 伊作も同じだった。そのとき伊作は少しだけ泣いた。
 不思議なことに、嬉しいと思いこそすれ、奇妙なことだとは思いもしなかった。非現実的なことを頭から信じてしまえる。それだけ大切なことなのだと思った。







 俺たちはよく昔の話をした。あのときあいつはこうしたとか、あのときこんなことがあったとか。思い出した記憶を忘れないようにするためだ。というのも、俺たちは昔の記憶をすべて思い出せていたというわけではなかったからだ。片方が覚えていて片方が覚えていないこともあれば、お互いが忘れていることもあった。むしろ覚えていないことの方が多かった。過去の出来事について知る方法の最たるものは夢だったが、起きていてなにかの拍子に記憶が電撃のように走ることもあった。しかしこちらは稀だったし、法則性も見出せなかった。
 他愛もない会話を繰り返す一方で、お互いの意識はレールの上をすべるように同じ方向に流れた。卒業間際に起きた不可解な事件の話だ。 とはいえ、あまりにめざましく状況が変わりすぎて卒業と言うものが正式な形で行われることは結局なかったのだが。
 あのあと、伊作は医者になった。忙殺の日々を送る傍ら、それとなく関係のありそうなところをめぐってもみたそうだが、結局なにもわからなかったという。その旅の最中、後輩にあうことがあっても、彼らも何も知らなかった。 忍術学園をやめ、自らひらいた孤児院でひそりと暮らしていた元教師のもとを訪れもしたそうだが、彼の口すらも重かった。 結局小平太と長次がどうなったのか、そして立花と潮江が無事だったのか、わからずじまいであった。
「そのあと家の都合でお嫁さんを迎えることになったり、子供が生まれたりしてね。また自由に出歩けるようになる頃には、あの事件を追うのは難しくなっていたんだ」
 子供、5人生まれたんだよ。かわいかった。留三郎にもみせてあげたかった。詰襟を着た少年がそんなことを言うものだから、なんだか変な気分だった。
「なんだかんだいって、長生きしたんじゃねーか」
「どうかな。なんで死んだか、いつ死んだかは覚えてないんだ。留三郎は?」
「俺もだ」
 俺は最後まで独りもんだったみたいだがな、とつけたす。たちまち伊作は顔を曇らせた。
「じゃあ彼女は」
「…さぁな」







 授業が終わるなりそそくさと教室を逃げ出したを、俺と伊作は追いかけた。
「不思議の国のアリスみたいだ」
 妙に幻想染みたことを言う奴なのだ。しかし顔は笑っていなかったので、気持ち悪い、と一蹴するのはやめておいてやった。
「思い出したのかな」
「さぁな」
 は昔、忍術学園とかいうところで、俺たちと同級生だった。大学に入って教室で顔をあわせた瞬間に、俺たちはすぐにわかった。あちこち記憶の彼女とは違っていたけれど、それでも間違いなくあの少女だった。伊作はまたもや俺のときと同じように涙ぐみながら彼女の手をとったのだったが、一方で彼女は思いっきり眉をひそめると、すぐさま伊作の手を振り払った。
「なんで覚えていないんだろう」
「さぁな」
「そもそもなんで僕たちは覚えているんだろう」
「…さぁな」
「仮説、言ってもいい?」
「ああ」
「あの事件に巻き込まれた人は、記憶がない」
「それは他の奴らにもあってみないとわからない」
「みんな…いるのかな」
「…わからない」
「ききたいことがいっぱいあるよ。なにがあったのか、知りたいんだ」
 何度もきいたセリフだった。もうかれこれ6年も経つ。
 結局、階段を駆け下り、廊下を走り、奇妙なものをみるようないくつもの視線とすれ違い、校舎をでたすぐのところでようやくの肩をつかんだ。
「なに」
 ふり返ったの瞳には、以前伊作に手を握られたときと同じ、怯えた色が浮かんでいた。
 しかし言葉につまったのはそれが理由ではなかった。望む望まないに関わらず意識はめぐる。とっさに手を離した。思わず、彼女に触れた右手を、じ、と見つめる。はますます不審そうに俺たちをみた。
「笑いにきたの、わたしのこと」
 眼力がやにわに増したようだった。む、と、つい俺もにらみかえしてしまう。性格というよりはもはや身体に染み付いた脊髄反射といった方がいい。するとますますの方もにらみつけてくるものだから、隣で伊作の動く気配を感じた。わざわざ確認しなくても、こんなことは俺の方が伊作の何倍も知っている。変わってないね、という言葉をすんでのところで飲み込んだのだ。
「別に笑わねえよ」
「うそ」
「うそじゃねえ」
「じゃあなに、好奇心?おせっかい?」
「ちげえよ」
「ねえ、ちょっと、喧嘩しにきたんじゃないだろ」
 伊作の声が割り込んでくる。その構成、焦り半分呆れ半分といったところか。今度は俺が言葉を飲み込む番だった。
 は俺を見、伊作を見、何か考えているようだった。この初対面(ほぼ)にあるまじき行動を起こした俺たちをどのカテゴリに分類するかで悩んでいるのだろう。なにかの宗教だと思われている可能性だってある。
 みかねた伊作が慌てて弁解をはじめると、次第に彼女の緊張はやわらいでいった、とまではさすがにいかなかったが、少なくともまともに話を聞く気にはなったようだった。伊作のひねりだした言い訳は理路整然としておらず、かといってどこが怪しいかととわれれば明確に指摘はできない、そんな微妙なものだったので、彼女が態度を軟化させるとは露ほども思わなかった。俺たちがどのカテゴリにおさまることとなったのかは彼女のみぞ知る、といったところだ。
 別に笑ったっていいけど、と前置きしてからは憮然とした面持ちで言う。まるで自分も被害者なのだと体中で主張しているかのように。
「悪夢を見たの」
「悪夢」
「そう、殺される夢。刃物でひと突き。感触とか、痛みとか、なにもかもが、すっごくリアルなの。本当に死んだかと思った」
 の視線は斜め下の地面を向いていたが、頭の中ではその光景を描いているに違いない。すぐさま、どんな奴だった、と伊作が飛びつく。彼女は予想だにしなかった質問に面食らったようだった。
「なんで」
「いいから。覚えてる?どんなやつか」
 彼女は少しだけ思案顔を作る。
「そうね…くまがものすごく濃かった、かも」







 次に授業があるというと別れ、俺たちは駅までの道を歩いた。お互いに授業になんか出れる心境じゃなかった。
 結局わかったことといったら、あの事件は俺たちが思っていた以上に複雑であるということだけだった。そしては過去の記憶を断片的にしか得られていない。さらに性質の悪いことに彼女にとって俺たちの生きていた時代の出来事はただの悪夢に過ぎないのだった。
「なんだか、このことは探らない方がいいことのように思えてきたよ」
 彼女と別れてからおしなべて無言だった伊作がとうとつに口を開いたのは改札を抜け、ホームへむかうエスカレーターに乗ってからだった。
「俺もそんな気がしてきたよ」
「文次郎がさんを殺したのだったら、どうするの」
 伊作の声は淀みない。駅に向かう道すがら、何度も頭の中で繰り返したのかもしれない。俺は思わず鼻で笑った。
「探らない方がいいんじゃなかったのか」
「たんなる疑問だよ。知的好奇心」
「それは、それは」
「で、どうなの」
「どうもしねえよ」
「あれ意外。てっきり意地でも探し出して殺してやるって言うと思ってたよ」
「もう終わったことだろ。それに、」
 ちょうどエスカレーターが平行になったので、俺はそこで言葉を切った。降りて、人の列に加わる。右手の方には電車が見えている。そういえば言い損ねていたことがあった。さっき彼女に触れて思い出した…
「どうも、文次郎を殺したのは、俺だったらしい」