心配性の母親に、直接そうとは言われないものの暗に様子を見てきてほしいと仄めかされ、仕事帰りに彼女のアパートを訪れてみれば、彼女はテレビも音楽もつけずに黙々と本のページを捲っていた。大学が終わって帰ってきてからずっと本を読んでいて、気づけばこんな時間だったのだと言う。当然のように夕飯のことなどすっかり頭にないのである。食費を削って本代にあてているとはきいていたが、冷凍庫の中にみっちりとコンビニおにぎりがつまっているのを見たときにはさすがに言葉を失った。安いときに買ってきて冷凍しておいて、その都度解凍して食べるのだそうだ。有無を言わさず、利吉は彼女を家からひきずりだした。
 あの母親の、血の繋がらない姪に対する過保護っぷりは実の息子に対するものをはるかに上回っている、とは父親との間でしばしば笑い種になっていた話題だったが、最近ではむしろそれくらいしないとこいつは生き抜いていけなさそうだ、と利吉は思うようになっている。






はなんでクラシックをやめたんだ」

 はれんげにすくった汁をふうふうと吹いていたが、その声ですぐに視線をあげた。あたたかな湯気の向こうで眠たげな瞳がちいさく瞬く。

「いきなり、なぜ?」

 なぜと言われても、急にふと思いついたのだ。そのようなことを言うと、は、ふうん、と気のない返事をしてれんげの中身をすすった。つつつ、と、汁を飲み下すだけの沈黙が流れる。

「よく覚えていないけど。たぶん、肌にあわなかったんじゃないかな。それよりもずっと本の方が好きだった」

 彼女の声はどこかぶっきらぼうに響いた。今度は利吉が、ふうん、と頷く番だった。プラスチックの箸で持ち上げたうどんにふうっと息を吹きかけ、静かにすする。エコに貢献していないと肩身がせまいのか、最近はどこへ行っても割り箸を見かけることが少なくなった。箸を作るためのプラスチックやら洗浄によって出る汚水やらを考えると、地球からしてみればどちらも大差なく迷惑なことなのではと思うのだが、専門家ではないしましてや地球でもないのでそこのところはよくわからない。もとより箸ひとつにめくじらを立てるような性分でもない。

「昔はあんなにピアノにかじりついていたのにね」
「…そうだった?」
「そうだよ。遊びに行くと決まってピアノを弾いていた。食事だって言ってもきかなくて、よく叔母さんとふたりがかりで引き離したよ」

 なつかしいね。しみじみ言うと、なんか親父くさいよ、と憎まれ口を叩いてくる。

「あんまり覚えてないな」

 辛さが足りなかったのか、唐辛子をふりかけながら、はぼんやりと言う。

「相当反対にあったんじゃないの?その、叔母さんたちのさ」

 彼女に才能があったかどうかは知らないが、やはり音楽の素晴らしさを知っている者として、子供にもその色彩に溢れた世界を味わわせたいと思うのは親として当然だろう。一般教養としてソナチネまでしかいかなかったその他大勢とは訳が違うのだ。目にしたものが多すぎる。
 どうだったかなぁ、と言っては再びれんげに汁をすくう。何か考えているようだったが、結局それ以上はなにも続かなかったので、仕方なく利吉も自分の分のうどんに取り掛かった。
 しかしふと、なぜだか急に思い出された光景があって、利吉は麺をさぐる箸をぴたりととめた。

、昔バイオリンもやってなかったか?」

 いつだったか、音楽室の扉をあけるとピアノの前の定位置に彼女はおらず、代わりに弦の音が流れていた。みればピアノの影で、自分より小さな少女が息をのむような演奏をしていた。そんなことがあったのだ。
 彼女は不思議そうに首を傾ける。

「やってないよ」

 先程とは違う、きっぱりとした否定であった。

「バイオリンをやるのはわたしの父さんだけよ」
「…うそだ」
「うそをついて、どうするの」

 こんなことで、とあっさりと笑う。

「でも・・・みたんだ。たしかに。が弾いているのを」
「記憶違いでしょう。きっとなにかと勘違いしてるのよ、テレビ番組とか」

 は取りつく島もない。利吉は諦めて、あとで母親か父親に聞いてみようと思い直して今度こそうどんに取り掛かった。



 店を後にしたふたりは、アパートまでの道をそそくさと歩いた。空気はすっかり秋から冬へ移り変わろうとしている。はマフラーに鼻から下を埋め、ジャケットのポケットに手を突っ込んでいた。すこし気が早いのではないかと思ったが、彼女はうまれついての冷え性なのだった。

「食生活の心配ははやいとこ彼氏でも作ってそいつにしてもらってくれよ」

 はむっとしたように顔の上半分をしかめる。

「利吉さんこそ、食事をおごらせてくれる彼女をはやく作りなさいよ」
相変わらず可愛げのないいとこである。

 この、と言って頭を小突くと、すぐさま足元に反撃の蹴りが入った。もう一度、と繰り出した拳は空を切る。は笑いながら小走りで利吉を追い越していく。
くたくたになったマフラー。
もう何年も変わっていないそのコバルトブルーは、誰かの色に似ている。