駅からアパートまでの道を走る。考える余裕もなくなるくらい全速力で走りたい気分だったけれど、そんなことはできなかった。泣きたいのとも違う、うれしいのとも違う、どちらかといえば恐怖に近い感情に、どうしたって意識が向いてしまう。追い立てられているのか、引き摺られているのか、自分でもわからないままただひたすら家までの道を走った。見慣れた道のはずなのに、だまし絵の中を走っているみたいだった。いっそずっと着かなければいいとすら思った。
 それでもわたしのいる世界はだまし絵でもなければ四次元の世界でもない。あっという間にアパートに着いてしまい、わたしは二階へと続く外付きの階段の下でいったん立ち止まって息を整えた。こめかみにういた汗をぬぐって、恐る恐る階段を上った。
 少し奥にあるわたしの部屋の前に、その人はいた。白い玄関灯に照らし出されて周囲から浮かび上がった様は、まるでこの世界の人間ではないみたいだった。月の光だとか星の光だとか、非現実的なものを集めたらあんなかたちになるのかもしれない。
 息が止まる、と思った。このままだとわたしはきっと死んでしまう、とも。でも現実としてわたしは生きていて、気づいた時にはその人の傍に立っていた。
「兄さん」
 壁にもたれてペーパーバックを開いていた兄は、その声ではじめてこちらの存在に気づいたとでもいうように視線を上げた。瞬間、寒気と眩暈が同時に襲った。自分が今浮かべているだろう表情を想像すると、死んでしまいたい衝動に駆られた。けれどもわたしは泣くことも笑うこともできずに、少し高いところにある兄の両の目をただ見ていた。
 無言で見上げてくる妹に何を思ったのか、兄は少しの間わたしの目をじっと見つめ返していた。観察しているといった方が的確なほど、その中にはなんの温度も混じっていないように思えて、途端に不安が耳の中でごうごうと音を立てるのを聞いた気がしたけれど、なによりも強く、そんな兄を美しいと感じていた。これから先、兄よりも美しいものに出会うことはないだろうという確信があった。神さまに会ったらきっとこんな感じに違いない。永遠に届くことがない。
「不良娘」
 なんの前触れもなく聞こえた兄の声は静かだったけれど、たとえようもなく凛として響いた。同時に兄がきれいな指でペーパーバックを閉じた音は、わたしを救われた心地にした。
「何時だと思っているんだ。いつもこんなに遅くまで歩き回っているのか」
「まだ八時だもの、遅くないよ。健全な大学生の時間はこれからです」
「そんなことは知らない。なんにせよ久しぶりに会う兄を一時間も待たせるなんて不良のすることだ」
 台詞でも読み上げるかのような透き通った口調は兄を特徴付けるもののひとつだった。その中に明らかに不満の色が混じっている。わたしはあと少しで呆れてため息をつくところだった。
「そんなこと言われても、いきなり帰ってきて『今家の前にいる』はさすがに非常識でしょう。出発する前に知らせるとか、せめて電話するなら電話するで成田からするとか、してくれもよかったのに」
 ふん、と、いかにも憤懣やるかたないといった様子で顎を持ち上げた拍子に、きれいに切られた兄のストレートヘアーがえりあしで揺れた。長さは変わっていない。髪形も変わっていない。黒曜石の艶やかさも、その下の肌の白さも、なにもかもが二年前の兄とまったく同じだった。
「…おかえりなさい」
 兄はそこではじめて微笑んだ。












 わたしと兄の関係を説明するのはおそろしく困難だ。どれくらい困難かというと、わたし自身も全てを教えてもらっていないくらいに複雑だった。
 わたしと兄は純粋な兄妹ではない。父親が違う。いわゆる異父兄妹というやつだ。わたしたちは同じ母親から生まれた年子で、でも兄の父とわたしに血縁はない。それでも幼い頃はわたしと兄と両親と、四人で一緒に暮らしていたような記憶がある。ぼんやりと。だいぶ物事がはっきり覚えられるようになった頃には、わたしはすでに確実にわたしと血の繋がった父と母と三人で暮らしていて、兄は兄と血の繋がった父親と二人で暮らしていた。
 どういうこと?
 きいても誰も教えてくれなかった。すこしだけ微笑んで、はぐらかすように、大丈夫だから、と言った。大丈夫かどうかは問題ではないのだけれど、誰もわかってくれなかった。そんなわけで、わたしはいまだにあの四人一緒に暮らしていたときの父親がわたしの父親なのか兄の父親なのかわからないでいる。兄は知っているのかもしれないし知らないのかもしれない。かつて兄はそのことについて、おまえが思っているほど複雑じゃないよ、とだけ説明した。でも教えてくれないのだからどちらにせよ同じことだった。












 けっこうきれいにしているんだな、と言って部屋に踏み入れた兄の足が入り口の横に積んであった文庫本の山を蹴り飛ばしたものだから、彼がきれいと形容した部屋の床はたちまち本が散らばる雑然とした床になった。こちらを振りかえった兄に無言でにらみつけられたが、でもわたしのせいではない。崩したのは兄さんです。そう言おうにももちろん言えるはずはないので、わたしは黙って本を元あった場所に積み上げなおした。
「この部屋に本棚はないのか」
 そう言う兄の目は、部屋の奥にある日用品入れ兼本棚であるスチールラックに向いている。嫌味や皮肉は兄の得意分野だった。お家芸かもしれない。わたしは常々、この嫌な性格は母方に由来すると確信している。
 空いたスペースに兄はスーツケースを広げた。とたんに部屋が無言に包まれたのでわたしは居心地の悪さを感じて、なにか話題を探した。
「どうしていきなり帰ってきたの」
 荷物をあける手は止めないままに、それでも兄はこたえてくれた。
「急に妹に会いたくなったんだ」「うそ」「もちろん。大学にちょっと用事があってね」「…用事」「ああ」「潮江さんに会うの」「あいつなら今ベルリンだ」「ええっ」「去年からだ。知らなかったのか」「知るはずがないよ」「そうか…まあそれもそうだな」
 そうなのか、と兄は繰り返す。なぜだかその動作が考え込むような、納得するような、そんな様子だったので、わたしはとても窮屈な気分になった。かといってどうしてかと訊ねれば、「べつに」としれっとした答えが返ってくる。そういう人なのだ。
 やれやれと心の中でだけため息をつきながら、ふと、
「どれくらいいるの」
疑問に思ったことを口にした。兄はまるで用意でもしていたかのように、
「いてほしいだけいてやる」
と言う。とっさに確認した兄の表情はうっすら笑っていて、すぐにまた嘘をついたのだとわかった。
「じゃあずっと、」
いればいいよ。
 最後の方は尻すぼみになって消えた。できるだけ純粋な嘘にきこえるように、笑って言えたと思う。
 お風呂洗ってくるね、と言ってわたしは部屋を後にした。答えを聞くのが怖かったわけではなく、聞く必要がないとわかっていたからだった。兄は何日かしたらまたここを去って自分の場所に戻っていく。それは揺るぎのない事実で、地球は太陽の周りを回っているということよりも正しいことなのだった。












 蛇口をひねって、タイマーをセット。濡れた足と手をタオルでふいて部屋に戻ると、兄は荷物の整理を終えたらしく、わたしの本を勝手にパラパラと捲っていた。さっき積み上げなおした山のてっぺんにあった本をなんとなく手に取ったのだろう。
 兄の姿は、二年前と本当に何も変わっていなかった。体重とか肌の色とかいう身体的な特徴はもちろん、身に纏う雰囲気もそのままだった。もしかしたら兄は日本を離れたことなんてなくずっとわたしのすぐ傍で暮らしていて、わたし一人が二年分の夢を一晩で見てしまっただけかもしれない。そんなのは空想だ。でも、ちょっとは夢のある空想だと思う。そんなことをぼんやりとめぐらせている間、わたしの目は本を持つ兄の白い手を映していた。白く、細いが、決して華奢ではない。兄の体の中で唯一大きくて節の目立つ、力強さを感じさせる部分だった。そこだけ人間味があるとすら感じる。鍵盤の上を滑る指。
「最近は美術館に行かないのか」
 兄が突然言ったので、わたしは意識の底から引き上げられた。
「行かない」
 わたしは淀みなく答える。
「今、何をやっているんだ」
「…忘れた」
「…ばかめ」
「ちがう。どんな人かはわかるんだけど、名前が思い出せないの。誰だっけ…フランスの人で、かわいい名前だったんだけど」
なんだそれは、と兄はくすくすと笑う。控えめな笑い声だったので、まるで女の子みたいだった。
「明日、見にいくか」
 兄の手が本を閉じ、それをもとあったバベルの塔に戻した。そして別の塔からまた違う本をとって開く。わたしはとっさに、
「なんでわざわざ日本に来て、そんな展覧会に行くの。向こうでいくらでもみれるでしょ」
などと我ながら素直じゃない口をきいていた。顔が少しだけ熱い。兄はわたしなんかの気持ちなどいつだってお見通しで、文庫本に視線を落としたまま勝ち誇った笑みを浮かべている。二年前と本当に何も変わっていない。
 わたしはたまらなくなって、お茶をいれてくる、と言って再びキッチンへと逃げた。


 ちょうどやかんに水を入れようと蛇口をひねったとき、テーブルの上に置いておいた携帯が着信を告げてブルブルと動き出し、それを兄がひょいとつまみあげてサブディスプレイにうつる名前をみて眉をひそめたのだけれど、浮かれていたわたしは薬缶の底を水が打ちつける音に集中していたので気がつかなかった。