手の先が痺れるほど寒いわけでもないのにパーカーのポケットに手を突っ込んで歩くのは竹谷のくせで、生真面目な久々知にはあぶないとよく窘められる類のものだった。だらしないことを目敏く見咎めてはしょっちゅうめくじらをたてる久々知はきっと育ちがいいのだろうと竹谷は常々思っている。姿勢だって人よりしゃんとしていて、これは彼がやっている剣道というスポーツだけのせいではないはずだ。久々知であれば、たとえやっているのがサッカーであれバスケであれ、ぴしっと背筋をのばしてスタスタと歩くのだろう。重い防具かさばる竹刀などものともしない。そんな彼にとって、自分やはどのように映っているのか、考えたことはあったが気にしたことはなかった。

目下のところ気になることといえば、先ほどのである。なにやら慌てた様子で携帯をつかむと食堂から出て行き、ずいぶん長い時間話しこんでいるようだった。話の内容は聞き取れないが、入り口の方で声がリノリウムの床を反響していた。自分の前では話せないような相手なのかと持ち前の気兼ねなさが売りの竹谷は幾分むっとしたが、苦虫を噛み潰したような顔のが戻ってくるとそんなものはどこかへ飛んでいってしまった。つまり、あっけなく興味の方が勝っていた。
は申し訳なさそうに、すぐ帰らなければならなくなった旨を告げた。
「すぐって…すぐ?ほんとにすぐ?メシは?」
「それ食べたらすぐ帰る。悪いけど、竹谷もちょっと急いで。いや、ていうかかなり急いで」
「なに、なんかあったの」
「うん、ちょっと」
そういうなり彼女にしては珍しくごはんをかきこみだしたので、竹谷もおとなしく食事を片付けることにした。もともと早食いには自信のある竹谷のこと、あっというまにたいらげてしまい、結局「手伝って」と有無を言わさずおしつけられた揚げ出し豆腐も食べる破目になったのだった。

「送ってくよ」
駅までむかう道すがら、小走りのにつきあって早足になりながら竹谷は言ったが、
「いい」
とぴしゃりとはねのけられてしまった。
「遠慮すんなよ。どうせ近くじゃん。夜遅いし、変質者出るよ」
「三郎なら対処法知ってるから大丈夫だよ」
「変質者は鉢屋だけじゃないんだってば」
「ほら、竹谷、終電逃しちゃうよ」
「終電って…ちゃん、終電って何時か知ってる?」
「知らない」
「俺たちそんな遠慮するような仲じゃないだろー」
「ありがと!また今度埋め合わせするから、そのとき送ってね!」
じゃっ、と映画のヒーローよろしく片手をあげたは、竹谷が水の張られたプラスチックケースを気にしてあまりスピードをだせないのをいいことにさっさと改札を抜け、あっという間に階段を駆け上って消えてしまった。






見事なピッチ走法だったなぁ、とアパートまでの道を歩きながら竹谷は妙に感心していた。駅からアパートにつづく商店街を抜ければそこはもうすぐ住宅街で、一気に人通りは少なくなる。目に付くのはちらほらと所在無く立つ自動販売機の光と機械音くらいなものである。

思えば、あの子があんな運動神経を発揮したのはこれがはじめてだったような気がする。普段からぼやっとしていて、天然といえなくもないが単に眠そうなだけなようにも思う。目の前にすると自然と気の引き締まる久々知とはいかにも対照的で、ふたりで並んだところはぎこちない印象を受けた。竹谷としても人のことは言えないのだが、この3人がうまくやっているのはとても奇跡的なことのように思える。
「でこぼこトリオっていうのかね、こういうのって」
口にしても答えるものはいないので、宙に霧散するばかりである。

家まであと曲がり角ふたつというところで、竹谷はふと水出しむぎ茶を今朝のみ終えてしまっていたことを思い出した。ティーバッグはあるので帰ってから作ればいいのだが、出るまでの時間を待てそうになかった。竹谷は人より我慢弱いところがある。
曲がり角をひとつ曲がったところにコンビニがひとつある。日に何度もお世話になっている、竹谷が最低限人としてまっとうな生活を送るのに必要不可欠となっているコンビニである。そこに寄ってから帰ろう、と彼は安易に思った。ついでに明日の朝ごはんも買っていこう。

曲がり角を曲がり、ガラス窓に添って歩きながら、なんとなく竹谷は店内を見渡した。すぐ目の前の雑誌コーナーによく知った顔を見つけて、竹谷はぴたりと足を止める。雑誌を立ち読みする彼をしばらくの間じっとガラス越しに見つめていたが、相手がこちらに全く気づかないとわかると、パーカーのポケットから携帯を取り出した。
「もしもし」
久々知は数コールであっさりと出た。
「久々知クリーニング店はそちらでしょうか」
「ばかいえ」
視線はあがらないが、口元が少し綻んだのがわかった。当然のことながら、携帯を通じて聞こえてくる音と目の前の久々知の口の動きは全く同じだ。
「どうしたの、突然」
「今日は部活なかったの」
「いや、はやく終わった」
「あ、そうなんだ。今どこにいんの」
「うちの近くのセブンだよ」
竹谷はにやっと笑った。
「うん、知ってる」
とっさに久々知の顔が呆気に取られた表情になり、眉が少しだけひそめられる。キョロキョロと店内を見渡していた久々知だったが、やがてガラスの反対側でひらひらと手をふっている竹谷に気づいて驚いた顔を作った。驚いたり呆気に取られたときの無防備な彼の顔はどことなく幼く、竹谷は好きだった。
勝手に切れた携帯をポケットにしまいつつ、竹谷は店内の久々知のところへ向かった。久々知はちょうど雑誌を棚に戻しているところで、エロ本じゃないな、と確認するのは忘れない。
「意地が悪いな。びっくりしたじゃないか」
「でもけっこうおもしろかったろ?」
「まあね」
久々知はくすっと笑った。






竹谷は烏龍茶とチョコデニッシュを、久々知は牛乳を買って、ふたりで肩を並べてアパートへの道を歩いた。こういうとき、一緒に帰る友人がいてよかったと思う。
そこで竹谷は、久しぶりにのことを思い出した。
「そういえば、ちゃんは?」
「なんだよいきなり。別に知らないよ」
こころなしか、久々知はむっとしたような表情をしたものだから、竹谷は少し小首をかしげた。
「なんだ、お前じゃなかったのか」
「はぁ?」
「もしかしたらお前かなって思ったけど、違ったんだな。誰だったんだろうな、あれ。鉢屋かな。でも鉢屋だったらあんな急いで帰る必要もないよなぁ」
久々知は眉をひそめて、「まてまて」と低い声で言った。右手はおきまりの制止ポーズをとっている。
「どこで待つんだ?」
「ちがう。おまえ脈絡なさすぎだぞ」
「え、そう?」
「俺にわかるように説明してくれ。がどうしたんだよ」
竹谷は順を追って説明した。今日はイモリを観察する実験をしていたこと、実験が終わって、を食事に誘ったこと、その最中に電話が掛かってきて、嫌そうな顔をしたが焦って帰っていったこと、送ろうとしたら激しく拒絶されたこと、彼女にしては珍しく見事なピッチ走法で大学から駅までの道のりを走っていたこと、等等。
全て話し終えると、ちょうど部屋の前だった。今日は家にあげてくれないかなとちょっと期待して竹谷は久々知を見たが、それに気づいた久々知はすまなそうに明日は朝練があると言った。
「おまえ付き合い悪いぞ」
「ごめんって。っていうか俺が朝練ない日に限って竹谷はバードウォッチングじゃないか」
「隣同士なのになんだかんだでタイミング悪いよな、俺らって」
二人して笑い合う。
「暇な日できたら連絡しろよ。とりあえず三人のなかじゃお前が一番忙しいんだからな」
「わかった。じゃ、また」
三人と口にしたとき、久々知の瞳の色がふっと揺らいだように見えたので、竹谷はおやと思った。しかし追求するよりもはやく、彼はするりと部屋の中に消え、あとはぽっかりあいた夜の空間と、久々知が靴を脱ぐ音がドア越しに聞こえてくるだけだった






部屋に入り電灯をつけると、そこは静寂と孤独だった。机の上にイモリのプラスチックケースを置くと、淀んでいた空気をいれかえるためにがらりと窓を開け放した。流れ込んでくる夜風は気分を洗うが、どことなく寂しい。
どこからともなく窓を開け放す音がきこえた。安普請のアパートなのですぐにわかる。久々知も竹谷と同じことをしたのだと知り、自然竹谷は微笑んでいた。こんなにも近いのにすれ違ってばかりの俺たちは、きっとお互いの人生とかいうものを歩んでいるのだろう。



「世界はあくまで並行して存在するもので、決して混ざり合わないの。ときどき触れ合うことはあっても」
いつだったか、が言った言葉だった。
ちゃんも、結局は人なんて孤独な生きものだって主張するタイプの人間なわけ?」
人間も動物の一種であり、遺伝子の乗り物に過ぎない。そんな講義を受けたあとでうんざりしていたせいもあってか、竹谷の口調は幾分トゲを孕んでいた。にらみつける竹谷を見据えたはやんわりと首を振って、ちがう、と静かに言った。
「ちがうの、そう言いたいわけじゃないんだけど」
「じゃあどういうわけ?」
なおも詰め寄る竹谷をみて、は困ったように笑った。ちがうの、なんていうか、
「…うまく、いえないけど」
「俺は人は孤独じゃないと思う」
「…」
「混じるとか触れるとか、よくわからないけど、世界なんてひとつだよ。いくつもあったら行ったり来たりするの面倒じゃん。現に俺たちは別に行ったり来たりしないで会えるわけだし」
しばらくして、は「竹谷らしいね」といってくすくす笑い、それでその話題は終わってしまった。



今なら彼女の言い分も少しは理解できるかもしれない、と竹谷は思ったが、でもやはり世界はひとつだという持論はかたくなに死守するつもりである。
現に、会いに行こうと思えばいつでも久々知に会いにいける。に会いに行くのだって、そう難しいことではないはずだ。終電がなくなれば自転車で言ったっていいし、歩いたっていい。友人のために歩く道のりはさぞかし楽しいだろうと思う。空間を捻じ曲げたり時間の流れを変える必要なんてないのだ。俺たちは今、ここに生きている。


そういえば、揺れた久々知の瞳はなんだったのだろう。
いまさら思い返してももはや遅いが、思い当たる節ならあった。

―だれからの電話だったの?彼氏?
―喧嘩売ってる?
―あ、じゃあモトカレだ。
―だったら、何十倍もましだったんだけど。
―ふーん。
―…なにその顔。
―じゃあちゃん、彼氏いないんだね。
―喧嘩売ってんの?竹谷だって人のこと言えないじゃんか。

不器用すぎて、行動に出る予兆などない。そもそも自分の気持ちに気づいているのかいないのか。成績優秀・頭脳明晰・文武両道というキャッチフレーズを思いのままにしている彼らしくもないが、周囲に先に気づかれてしまうあたりは、まぁ彼らしいといえば彼らしい。相手の方も相手なのでまぁお互い様ともいえる。

今頃、彼は黙って無駄に考えをめぐらせているのだろう。そんな彼の姿を想像するとすぐにでも飛んで行って例の会話を教えてやりたい気もしたが、しかし自主性というのは大切だし尊重されるべきだと思う。
少なくとも、家まで送っていくと言う友人を拒絶する権利くらいには。

(気になったんなら素直にきけばいいのに)

もう少し傍観者でいても、ばちは当たらないだろう。