懐かしいというほど長い月日を過ごしたわけでもないのに、ここにくると穏やかな気持ちになるのはなぜだろうか。不思議に思いながら俺は古めかしい門をくぐった。途端に、わあっという歓声をあげたちいさな影たちが駆け寄ってきて、思い思いの歓迎を浴びせてくる。ここの子供たちは広い山を庭に育っているので、もはや動物も同然の強靭な体力を誇っている。渾身の力でぶつかってくるちいさな動物たちの相手をしてやっていると、やあいらっしゃい、と騒ぎをききつけたこの寺の主人が姿を現した。俺の記憶が正しければ、彼はまだ30なかばにさしかかったくらいの年のはずなのだが、すでに40過ぎとも50過ぎともとれる雰囲気をまとっていた。老成しているというのとも少し違う。昔から彼にはそういった雰囲気があったが、なぜか今日は一際目についたので、俺は心の中で首をかしげた。学園にいた頃の自分なら、確実に口に出して訊ねていただろう。しかしそうしなかった。分別を身につけるだけの時間は流れていた。

彼と会うのは半年ぶりだった。近況報告をまじえた雑談を交わしながら縁側に上がろうとすると、それまで足元にまとわりついていた子供たちが着物の裾をひっぱった。
「お部屋にはお姉ちゃんが寝ているから、入っちゃいけないんだよ」
舌足らずな子供の声に予期せぬ単語が混じっていたので、内容を理解するのに数秒を要した。そしてようやく驚いた視線を彼の方に向ければ、彼はいかにも困ったように笑う。
がね、来ているんだ」
何年かぶりに聞くその単語に、俺はまたもや目をまるくすることになる。









きり丸のために山菜をとっておいで、と彼は俺から一向に離れようとしない子供たちを外へと追いやった。そして、「たまらないなぁ」と一言、子供じみた口調で零す。
「ほとんど世話しないのに、いつだってお前はわたしより子供に懐かれるのが早いんだ」
すねたように口を尖らせてなどみせる。いつもなら軽口のひとつやふたつ、気兼ねなくかけられただろう。おしめを変えるのは先生の方がうまいじゃないですかとか、俺の方があいつらと年が近いですから、とか。そうできなかったのは、この奥にいるのであろう女の存在が障子を隔てて伝わってきていたからだった。
「3ヶ月か4ヶ月くらい前かな、突然ふらっと訪ねてきたんだ。行くあてがないらしくて、ここに住むことになった」
彼はごく簡潔に説明した。
「行く当てがない?」
「はぐれたらしい」
「またですか」
「そう」
「懲りないですね」
「まったくだ」
そのとき俺はあの、もうひとりのかつての教師の息子の顔を思い浮かべていた。彼らがとある事件に巻き込まれて離れ離れになってしまったのも、もう何年も前の話だった。昔のことすぎていっそ現実感がなかった。はたしてあれは本当に起こったのだろうかと考えてみても確信は生まれない。他人の物語はいつだって夢のように曖昧な影しか落とさない。
「こんな時間に寝ているなんて、また怪我でもしたんですか」
「いや、」
「じゃあ病気とか」
「いや、」
彼はわずかに目を伏せる。言葉を選んでいるようだった。なんだか嫌な予感がした。
「もうすぐね、子供が生まれるんだよ」
子供。俺は目を瞠った。彼は幸せそうな穏やかな笑みを浮かべていて、ああつまりそういうことなのかと、考えることを停止した頭をそれだけが支配する。呼吸だってとまっていたかもしれない。そんなに驚かなくても、という彼の言葉ではっとわれに返り、とりあえず何か言わなければと思ったが、
「…おめでとうございます」
咄嗟に出たのは我ながら気の利かないありきたりな言葉でしかなく、返ってきたのも「ありがとう」というごく簡潔なものだった。それだけにひどく浮きぼりになって響いた。

子供。
俺は心の中で思い描く。それはかつての俺ではない。ここにいる孤児たちとも違う、彼自身の子供。しかしなぜだろう、目の前で微笑んでいる彼とはどうしたって結びつけられない。









子供が生まれるの、と彼女は言った。
その言葉には、それ以上の意味は含まれておらず、ただ事実を描写しただけという色がありありと浮かんでいた。今日の昼はずっと寝ていて、夕飯は子供たちが山でとってきた山菜を料理したの。それと同じくらいの温度だった。
子供が生まれるの。大きなお腹にそっと触れながら。
「土井先生の子供?」
昼間からずっと頭の中でこびりついて離れなかった疑問だった。そばに本人がいないので、なんの遠慮もいらない。彼女は深い瞳でちょっとだけこちらを見たが、やがてあっさりと首を横にふった。彼女の方も遠慮はいらないと思っているようだ。
「やっぱり」
「きり丸は妙に勘が鋭いからなぁ」
「勘が悪い奴でもわかるさ。ていうか、土井先生は知ってんの?」
「もちろんよ」
では昼間の彼の穏やかな笑みの意味するところはなんだったのだろう、と想像をめぐらせるよりもはやく、彼女が言葉をつなぐ。
「だれの子か知りたい?」
「別に。土井先生じゃなかったら誰でも一緒だし」
「だよねぇ」
彼女はくすくすと小さく笑った。俺は何も面白いことがなかったので笑わなかった。その代わりに、彼女の表情の変化をひとつも見逃さぬようじっと目を光らせていた。強気な物言いと冷静な口調とは裏腹に、彼女の存在感はおぼろげで、まるでここではないどこかにいるかのようなのである。夕方に覚醒しきらない顔で姿を現したときからそんな様子で、以来一向に変わる様子もない。心はちがう場所を旅しているのだろうか。まだ別の誰かの隣にいるのかもしれない。
「ね、その言い方。とっても冷たいのね。怒ったの?」
「怒ってないよ」
「うそ」
「本当さ。俺が怒ったってしょうがないじゃん」
「そうかな。わたし、きり丸にはきっと怒られるって思ってた」
「土井先生が怒らねぇなら、俺だって怒らねぇよ」
それにさ、ときり丸はちょっとだけ笑った。嫌味でかつ生意気にみえてよくないと彼をして言わしめた笑い方で。
「誰にたいしてもそうなんだよ。土井先生のお人好しっぷりは俺が一番よく知ってる」 彼女はまるで感情のこもらない瞳でこちらをじっとみつめた。俺はそれにまっすぐ答える。しかし内心、自分の言葉が予想していたより挑戦的に響いてしまったのを後悔していた。
怒っていないというのは事実だった。彼の不幸のことを思わなかったわけではない。もちろん彼には幸福であって欲しいと思うし、そうなるべきだと思っている。
彼の不幸のこと。それについて言えば、そんなものはこれまでにいくつもあった。しかしそれは彼の心の奥底に抱えられたものであって、俺と直接関係するものではなかった。なぜなら、彼と俺に関する全てのものは幸福の一色に染め上げられていたから。ときたま彼が不幸の思い出を引きずり出してきて別人のような顔をすることがあっても、それは俺の土井先生ではなかった。ただ目を逸らしていれば全ては通り過ぎていき、また何もなかったかのようにふたりして笑えあえた。不幸を生み出すのは俺ではない他の誰かと過去の役割だった。そういうのをきっと傲慢というに違いない。俺の中でそこだけが成長を止めてしまったかのようだ。しかし安堵は確かなものとして胸の中にある。今回もまた不幸は俺と彼の上に降り注がなかった。ただそれだけ。ただそれだけのことで、あさはかな俺はまた彼と笑い合える。

不幸の元凶である女。俺の知らない彼をまたひとつ作ってしまった憎い女。彼女は相変わらず無感情な瞳でこちらを見つめていたが、やがてお腹の上にあてた手に視線を移すと、いかにもたった今気づいたという顔で、ああそうかわたし半助さんの代わりにきり丸が怒ってくれるのを期待してたんだわ、とぽつりとつぶやいた。







(もぬけのから)