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レンガの敷かれた道をひとりの青年が歩いていた。両側にはカフェをはじめとしたあらゆる種類の商店が軒並みをそろえており、道幅は極端に狭い。空を見上げればすぐそばに趣向を凝らした看板が目に入るものだから、窮屈といって差し支えなかった。それでも息がつまらないのはおそらく、建物のあちこちからにおい立つ何千年という歴史のせいだ。そこを通る人々の想像をかきたてては、遥か彼方へと誘う。 子供たちが数人、道の向こう側からわらわらと走ってきて、歓声を上げながら青年の脇をすり抜けて行った。彼は歩みのスピードはそのままに彼らを器用によけ、少しだけ歩いたのち、ふと何かを思い出したように振り返った。いかにも幸せの化身である子供たちが、ちょうど角を曲がって路地裏に入っていくところだった。秘密基地でもあるのかもしれない。遠く子供たちの叫び声が響いている。しばらくその声に耳を傾けていた彼だったが、やがてすぐそばにあったカフェのドアをくぐった。 カウンターに立った彼がコーヒーをひとつ注文すると、ややあってちいさなエスプレッソが出てきた。その苦い液体を喉の奥にちょっとずつ流しながら、彼は後ろのテーブル席で交わされている会話にぼんやりと気を向けていた。 男爵…テロリスト…少なくとも5人…死傷者14名…行方不明…オペラ座…皇太子殿下…… 額をつき合わせての会話なので細部までは聞き取れないが、彼の耳は重要な単語は逃さない。それら全てが予想の範疇のものだったので、彼は小さくため息をついた。おそらくこれから国境の警備は厳重になるだろう。もっとも、陸続きのこの国のこと、国境警備などあってないようなものだったが、警備兵の中に念の使い手がいれば、話は少しややこしいことになってくる。できるだけはやく、この国からは去らなければならない。 でも、と彼はデミタスカップのふちを人差し指でなぞった。 でも、子爵に疑いはかからなかったのは幸運かもしれない。 それは能力によって姿を変えただった。 今日扮している青年は、数年前に旅の暇潰しにと鉄道の駅で買い求めた雑誌に載っていたモデルの男だった。モデルといってもあまり有名だと仕事に差し支えるので、ある機械によって背を10インチ伸ばしたとかいう後ろの方の男を選んだ。身長はそんなに必要なかったので、謙虚にビフォアの身長を再現しておいた。彼女にはそれで十分だった。そもそも、生活するうえでは10インチプラスの身長など不要である。 これといって特徴のない顔立ちだったが、いくつかある仕事用の顔の中では比較的気に入っている方だった。優男然とした表情は他人に警戒されないし、なにより人の記憶に残らないのがいい。同様の理由で子爵も気に入っていたので、彼が逮捕されなくてよかったとは心から思った。新しく隠れ蓑を探すのはとても面倒くさい。面倒なことは大嫌いだ。 「あの、」 エスプレッソを飲み干し、そろそろ出ようかなと考えていたところで隣から声がかかった。 「砂糖をとってもらえませんか?」 空になっているらしい砂糖つぼをからからと振りながらにこやかに言ってくる隣の男は、一見したところブラックコーヒーを好みそうな男である。読書をしている最中らしく、片手には古そうな書物が開かれている。テーブル席で読めばいいのに、とはちょっと眉をひそめたが、無言で自分の手元にあった砂糖つぼをとると、彼の方へよこしてやった。 途端、大きな骨ばった手がの手首を思いっきり掴んだ。手から零れた砂糖つぼが床で鋭い音を立てて粉々になる。その瞬間、体中からオーラの流れがひいていくのを感じた。念を封じられたのだ。 息が止まる。 は目を見開いて、微笑みを崩そうとしない男の顔を見据えた。 「意外に、抜けてるんだね」 そう言って男は無造作に頭をふって前髪を払う。間違いなく、昨夜の仕事に最悪の色を添えた張本人だった。全身があわ立ち、汗が噴出すのをは感じていた。 なので、次に出た行動はほとんど脊髄反射といっていい。ぎりぎりと遠慮なく手首を締め上げてくる男の腕を、自由な方の手で打ち据える。 「へぇ」 男は形のいい眉を持ち上げて、おもしろそうにロゼを見た。 「体術も、できるんだ」 確かに骨を折った手ごたえはあったのだが、目の前の男は全く動じない。男の背後に、二人の男が立っているのが見えた。ひとりは見覚えのあるあの小柄な男で、舌なめずりをして近づいてくる。 迷っている暇はなかった。男を打ち据えたのと同じ手で、自らの手を打つ。爬虫類が尾を切り落とすように、自らの肘から下を切り離そうとしたのである。 しかしあと紙一重で手が肌に触れるというところでは後頭部に鈍い痛みを感じ、そのまま意識を失った。 |