夏の象徴としての暑い日差しに目を細めるのは、この季節の宿命といってよかった。あつい、とさかんに文句をいってくるヴェーゼは長袖長ズボンに帽子ですっぽりと体を覆っていて、いわく、日に焼けるのが嫌なのだそうだ。この国で唯一幸運だったのは湿気がなかったことだけね、と彼女は言う。ふうん、と至極どうでもいい気持ちで返した返答は100パーセントの冷気でもって迎えられた。そりゃあね、あたしだってあんたみたいな能力持ってたら…ちょうどホームに列車が滑り込んできたので、これ幸いとわたしはそちらに体の向きを変える。
 プシュウ、 と音をたてて目の前で扉があくと、先程とは違う物質的な冷気が襲い掛かってきた。中には人影がみあたらなかった。終点だからだ。だれもがここから列車に乗り、隣の国かあるいはもっと遠くの国へ旅立つ。



 小さな旅行鞄を座席の上におき、ヴェーゼとは斜め向かいに座った。そう広いボックス席ではないので、向かい合わせに座ると膝が触れてしまう。列車内は冷房がひどく強くかかっていて、これなら彼女の厚着はまったく間違いではなかったのだなと思った。外から持ち込んだ熱気が相殺されるころにはわたしの剥きだしの腕はぴりぴりと冷気を伝えてきていた。女性的な分野に関する彼女の知識と経験にはいつも目を瞠るものがある。わたしは神経質ともいえる彼女の行動に呆れるか、そうでなければ舌を巻くか、いつもそのどちらかだ。
「あたしは手伝わないわよ」
 突然の言葉に、わたしは一瞬なんの話をしているのかわからなかった。斜め45度の角度。ちょっと顎をあげて、憮然とした面持ちでこちらを見ている彼女を見返しながら、それがこれからのわたしの仕事についての言及であることに気付くのに、たっぷり3秒はかかった。わたしは隠そうともせずにため息をつく。
「何度もきいた。そもそも手伝ってほしいなんて一度もお願いしてないでしょ」
「ゾルディックなんて…正気の沙汰じゃないわよ」
「そっちも何度もきいたわ」
「バカね、あんた」
「なんとでも」
「ほんとバカよ。バカとしかいえない。なんだってそんな仕事わざわざとってきたわけ?」
 彼女とは半年ほど前に知り合った。要は仕事仲間で、違う斡旋所を介してたまたま同じ仕事をした。以来、どちらからともなくつるむようになっていたのだが、それも今日までの縁になりそうだった。
 プシュウ、と先ほどと同じ音がして列車の扉が閉まるのが聞こえた。四角い窓に縁取られた窮屈な世界がゆっくりとした速度で動き始め、次第に加速していく。感傷などあってもなくても世界は動く。運命と同じことだった。
「自分の力を試してみたい、とか」
 なんとか言いなさいよ、と急かされる瀬戸際のラインで出した回答は、全くの嘲笑で迎えられた。
「間違ったってあんたがそんな殊勝な性格わけないじゃない」
「どうかなあ」
「言いなさいよ。別に隠すことないでしょう。まさか死にたいとか言うんじゃないでしょう」
 わたしは表情だけで笑った。あながち嘘ではなかったからだ。終止符を打とうと思っている点ではまったく間違ってはいないのだ。その考えはどことなく私を愉快な気分にさせた。しかしこちらの思惑などよそに、ヴェーゼは顔を厳しくしてわたしを見ていた。それでたまらなくなって、もう一度わたしは笑った。
「うそうそ。冗談だってば」
「当然よ。それこそあんたにしちゃ殊勝すぎるわよ」
「ひどいなあ」
「で、なんなのよ」
「本当はね、まとまったお金が欲しいの」
 なんのために、と詮索好きな彼女が次の言葉を繋いでくるのはわかっていたので、すぐに言葉を返した。
「足を洗おうと思うの。この世界から」
 返ってくるのは驚愕か、皮肉か、嘲笑か、あるいは反対か。可能性はいくらでも思い描けたけれど、間違っても肯定的なものではないんだろう。そう覚悟していただけに、彼女の反応はすごく意外だった。
 しばらく沈黙をはさんだあと、
「…そう」
一言ぽつりと言った。それだけだった。肯定や否定どころか、コメントのひとつすらないのだった。
 ふと、あいつだったらなんて答えるだろうという考えが胸に浮かんだ。拍子抜けの気分を埋めるためだったのかもしれない。ありえない、などと一笑に付すのだろうか。お前が血を忘れることなんてあるはずがない、と。そう長くもない時間しか共に過ごさなかったので、多くの可能性は見出せなかったが、確かに言えるのは、あいつはまともに取りあわないだろうということだった。







 会話をする気は失せたのか、ヴェーゼはファッション雑誌に没頭し始めていた。駅で買ったそれを旅行鞄から出すために一度だけ彼女は立ち上がり、そのときに少しだけきまずさを感じてわたしは視線を車窓に移した。のどかさを体現したような田園風景は向こうへ向こうへとしきりに追いやられていくけれど、雑誌を捲る彼女の姿はそのままだった。どこまでも広がる空に、まるでぽっかりと浮かんでいるようだった。
 ヴェーゼはこのあとひとつめの駅で降りる。わたしはもう少し先の国まで行く。それはゆるぎない事実で、たとえ列車が事故を起こして止まったとしても、わたしたちは自らの足でそれぞれの目的地に辿りつくのだろう。確信があった。流されているのと流されていないのとの違いはわからない。運命とか翻弄とかいう言葉にしたって、遠い国の言葉のようだった。
「ねえ」
 わたしの声に、窓の中のヴェーゼは顔をあげる。
「仕事が終わったら、また連絡してもいい?」
 どうして自分がそんなことを言う気になったのか、一瞬だけ戸惑う。でもそれはあまりにまっすぐだったので、もうどうしようもないのだった。彼女からは少し逡巡するような気配がしたけれど、ややあって、いやあよ、と涼しい声がした。とても透明で静かな声だったので、どうして車輪に掻き消されずにちゃんと耳に届いたのか不思議だった。
「だってそれ、連絡なかったらあんたは死んだってことになるじゃない」
「あぁ…そっか」
「でしょう」
ヴェーゼは穏やかに笑う。なにかが壊れたような笑い方だった。
「あたしはそういう、湿っぽいのはごめんなの」
 わたしは思わず息を呑んだ。彼女の向こうに累々と折り重なる影をみたような気がしたのだ。唐突に胸の奥に響いた。あまりに無秩序なので驚いて、まるで自分の気持ちじゃないみたいだった。
 現実的かと思えば変なところで人情的な彼女は、些細なことで声を高くしたりもすれば、妙なところに神経質だったりもした。要するに、ありのままの女性としての気性の持ち主だった。そのくせしょっちゅう姉貴分を気取っていて、どこかちぐはぐな印象を受けた。しかしそんな彼女でもやはり、同じ冷たい稼業に身を置く者だということに違いなどなかった。
「ごめんなさい」
 何かを言おうとして、でも言うべき言葉が見つからなくて、結局振り切るようにそんな言葉を口にした。わたしは相変わらず車窓に映る彼女にしか向き合うことができなくて、それでも向き合わずにいることはできなかった。
 ばかね、と彼女が笑う。泣きたくなるくらいやさしさに溢れていたので、もっと言われてもいいな、と思った。