右頬のあたりで真一文字に裂けた傷をほとんど無意識のうちに修復してしまうと、は室内から廊下へと続く石壁に目をやった。先ほどが放ったナイフが、石と石のちょうど隙間に深々と喰いこみ、柄をのぞかせるばかりになっている。

「あなたの敗因を教えてあげましょうか」

 は視線を元に戻して、彼女から少しはなれたところに転がっている大男に向かって声をかけた。全てが石で建てられたこの古い教会は声をひどく反響させる。思っていた以上に声が大きく響いたので一瞬彼女は眉をひそめたが、すぐにまた気を取り直して顎をあげた。

「わたしの投げたナイフね、あなたはすごく警戒していたみたいだけど、実はあれ、まったく意味がなかったの。牽制のために投げたつもりだったんだけどね、かなりコントロールが狂ってしまって。なのにあなたはそれを必要以上に気にかけてしまった。注意しすぎてしすぎることはないって言うけど、今回はその限りではなかったわね。人生の警句もときには信者の足をすくう。この場合は使い方の誤りかしら。どちらにせよ皮肉なことね。話は逸れてしまったけど、それが敗因。よくわからないのだけれど、あなたのような種類の人たちって強敵を前にすると途端に及び腰とはいかないまでもものすごく神経過敏になるのよね。敵のやること一つ一つに意味があると思ってしまう。でもわたし、思うのだけど、大切なのは意味がある行動をすることじゃなくて、行った行動に意味をもたせることじゃないかしら。意味なく放ったナイフをあなたが気にしたことでそこに意味が生じる。わたしはそれを見逃さなかった。いちいち計算しながら自分と同じ程度の力量の敵を相手するなんて無理よ。どこかの国では謙虚は美徳とされているらしいけど、今回はそれが仇になったわね。次は気をつけなさいね…ああ、あなたたちは次を信じていないのだったわね。この教訓が還元されないのはちょっと残念だけど、でもまあ、フェアな結果でしょう。わたしも信じてないし」

 石畳の上を反響するの声に、すでに絶命している男は答えられるはずもない。その見開かれた瞳は何かを語りたそうにも見えたが、しかし人生は一度きりだ。延長線とかいうものはきっと、生きている人たちへの冒涜になる。
 男の延髄を正確に貫いていた杭がひとりでに動き出し、からんと乾いた音を立てて石畳の上へと零れ落ちた。するとそれはすぐさま鷹へと形をかえ、へ向かってゆるりと飛んでいった。彼女が差し出した手にその鳥は音もなくとまると、そのまま溶けるようにの中へ消えてしまった。
 は鷹の吸い込まれた部分をもう片方の手でおさえながら、しばらく他にやり残したことがないか視線をめぐらせていたが、ふいに何かに気づいたかのように瞬きを繰り返すと、ふたたび男の方を向いた。

「…それとも、すべてにおいて意味のある行動を作れる人間を強者というのかしら。だとしたらわたしはまだ底辺を這いずり回っている虫けらにすぎないことになるわね。まだわたしは強者の域に達していないということかしら」

 虫けらのつぶしあいという言葉が脳裏を過ぎったが、彼女はかぶりを振ってその考えを振り払った。別に虫けらであったところでなにも問題はないのだ。








 ガラスのはまっていない石枠だけの窓から見える空は南国特有の高い青色をしていた。さえぎるものは何もなく、ただひたすら底なしに明るい。燦々と降り注ぐ太陽の下、時折吹き込んでくる風は潮の香りを運んでくる。
 孤島に建てられたこの教会は、昔こそ敬虔な信者たちの苦しみに救いを与える避難所だったのだろうが、今や時間の波に飲まれて見る影もなく荒れ果てていた。しかしそこかしこにかぎりない詩情が垣間見えている。歴史の狭間に落ち込んでしまったかのようだ。耳を澄ませば確かにうみねこの声や潮騒の音、そして海の向こうの港町の喧騒が聞こえてくるのだが、それらはこの空間に響くものではなく、むしろ無音にするためのものだった。
 荘厳な静寂の沈殿。その中を、は無言で歩いていた。礼拝堂から祭壇へ、広間から中庭へ、部屋から部屋へ。そうして生きているものの気配を探しているうちに、ひとりの少女をみつけて彼女ははじめて足を止めた。 さまざまな石像の安置された部屋だった。片側は中庭に面しており、降り注ぐ陽光が室内を明るく照らしていた。当然のことながら石像たちの保存状態は悪く、ほとんど風化して原形をとどめてすらいなかったが、そのうちのひとつ、おそらくもともとは横たわる聖人を模していたのであろう石像に寄り添うようにして小さな女の子が眠っていた。
 どこから入ったのか。そんな疑問よりも先に、は少女が怪我をしていることに気がついた。薄汚れた包帯が幼女の右腕と左足と頭を巻き固めている。それが決して軽症ではないことは遠目からも明らかだった。
 は少女の元へ近づいていって、そっと肩を叩いた。何度目かの試みの後、少女はゆっくりと起き上がって、包帯の巻かれていない手でたどたどしくまぶたをこする。彼女は寝起き独特の不機嫌さをあからさまに放っていたが、がいることには別段何の警戒も感じていないようだった。
 どこから来たの、とは語りかけたが、少女は首を傾げるばかりだった。そこで彼女はじっと少女の怪我や様子をみて、ああ、逃げてきたのね、とぼそりと言った。少女はぱちぱちと大きな目を瞬かせると、そこではじめて口を開いた。

「あなたはだれ」
「わたしは…そうね、ある人に頼まれてあなたの国の指導者を倒しに来たの」
「たおす?」
「倒したの。だからもうじきこの戦争は終わるわ」
「おわる?」

 鈴が鳴るような小さな声だった。か弱い子供だ。なのに目には深い色が宿っていて、思わずは震えた。

「おわっても、おとうさんはかえってこない」
「父親…死んでしまったの?」
「ころされたの。だまされて、なぶられて、ころされてしまった。せんそうがはじまる、ずっとまえに」
「ずっと前?」

 は眉をひそめた。

「あなたは…」
「だれもいない。すきなひとはきえてしまった。いきをしてもむなしい。ねえ、なんであなたはしなないの?」

 少女の手がの服の裾をつかむ。窓から入り込んできた潮風がさらりと幼女の前髪を揺らし、無感動な額をあらわにする。

「しんでないけど、いきてもいない。あなた、なんのためにいきをするの?」

 ふたたび潮風がまいこんで、少女の服と髪を揺らした。雲の仕業か、ふいに室内を影がよぎる。やがて人の気配を背後に感じた。イルミだった。

「なんだ、もう終わってたのか」
「うん」
「だったら早く戻って来いよ。今まで何してたんだ」
「何って、」

 はぐるりと首をめぐらせて、さきほどまで彼女を睨みつけていた小さな生き物のいた空間を見たが、そこには限りなく透明な空気があるばかりだった。
 、と呼ばれて彼女はイルミの目を見た。

「…なんでもない」

 が呟くようにそう言うと、イルミは天を仰いで小さくため息をついた。
 中庭の方から差し込む光が男の片側を照らしている。はそんな彼を見つめながら、次第に意識が輪郭線を失っていくのを感じていた。どこに消えていくのかはわからなかった。たぶん、どこでも同じなのだろう。

「幻覚をみたの……わたし、もう終わりかもしれない」

 イルミは相変わらず感情の浮かばない顔をしていたが、瞳の色にわずかに不審の色が混じったのがわかった。その手はを抱くことも、手を握ることもしない。イルミはそういう人間だった。それでもを愛していて、それでも彼女を支えていた。彼は彼のやり方で歩く。まるで当たり前のように肌になじんだ彼の温度も、なぜだか今日に限って強く瞳の奥をつくのだ。

「死の直前って、こんな感じなのかしら」

 遠く、影のような少女が笑っている。