が布団から這い出してシャワーを浴び、遅い朝食をとるため街へくり出したのは、すでに日も高く上ろうかという時間だった。彼女は一番はじめに目についたカフェに入ると、水をもってきたウェイターにフルーツサンドとコーヒーを注文した。手元のメモ用紙にそれを書きとめ、にこやかに一礼してテーブルから去っていった彼と入れ違いに、別の男がやってきた。「相席いいかな?」それは質問というよりも、意思表明でしかなかった。男は昨日の、あの奇抜なメイクや胡散臭い服装は一掃し、ノーメイク・ナチュラルスタイルという、いたって好青年風のいでたちだったが、にもかかわらず はあからさまに眉をひそめて、彼が目の前の席を陣取るのをみていた。

「そんな怖い顔するなよ」
「いい顔しろっていう方が無理」
「なぜ?」
「…なぜ!」
「なぜ?」

やがてさっきとは別のウェイターがヒソカのために水を持ってきた。ブラックコーヒーとパスタを注文するヒソカを見ながら、彼女はどうやったらこの場から逃げられるか割と本気で考えた。まず目の前のグラスを彼に投げつけて隙を作り、そして――案は次々と明朗に浮かんできたが、実行に移すとなると途端にリアリティを失った。単純に面倒くさかったのだ。

「奇遇だねぇ。たまたまさっきそこを歩いていたら君を見かけたからさ、思わず入ってきちゃったよ」
「しらじらしい」

彼らが別れた場所とこの街とは、ゆうに数千キロは離れている。彼女はいらいらとヒソカから視線をそらすと、びっしりと汗をかいたグラスのふちを指で弾いた。中の氷が窓から差し込んだ光を反射して、キラキラと輝いている。

「腹の探り合いはきらいなの。用事があるならさっさと言って。ないならさっさと帰って」
「食事もせずに?」
「永遠に食事できない体になりたくなかったらね」
「冷たいなぁ。愛想のない女は嫌われるよ」
「知ったこっちゃないわよ」
「言葉遣いが悪いのもよくない」
「そうね、少なくとも、嫌われたくない相手に対してはこうじゃないわ」
「残念なことに、ぼくはどっちも嫌いじゃないんだよねぇ」

いい加減な気持ちで口にした言葉に、予期せぬ言葉がピリオドをうつ。ゆっくりと彼の方へと視線を戻すと、ヒソカは机の上に両肘を突き、心底たのしそうに笑っているのだった。

「…残念だわ」

とりあえず、口から出たのはそんな言葉だった。

「一応確認しておくけど、わたしの立場はわかってるのよね」
「人妻ってこと?でもね、そんなこと僕には関係ないんだよ。君風に言えば、知ったこっちゃない」

ヒソカは揶揄を何食わぬ素振りでさらして笑う。 はあきれて思わず天井を仰いだ。

「…その自信がどこからくるのか、ぜひお聞かせ願いたいわ」
「あれ、結構勝算あるんだけどなぁ」
「心外だわ」
「だってきみ、退屈そうなんだもの」

ヒソカはいやらしく口元をつりあげる。
彼の言葉は妙にしずかに、たとえようもなく無色透明に響いた。 は次の言葉をみつけだせずにいたけれど、ぴしりという、氷に亀裂の入る音はきいていた。グラスでなくてよかったと心の隅で思う。数秒の沈黙の後、ウェイターがにこやかに料理を運んできたので緊迫はいったん解消され、あとはふたりしてもくもくと食事を摂取した。






「このあと、どうするの?」

食事と飲み物を干すまでの沈黙を破ったのは、ヒソカの何食わぬ笑いだった。先程まで自分が話していたことなど、忘れでもしたかのようである。
はこのあとはホテルに帰ってごろごろするつもりだったのだが、そう言うと間違いなくこの自信満々な男は部屋まで押しかけてくるだろう。さて、なんと答えるべきか。彼女はぼんやりと考えをめぐらせながら、グラスのふちを指で弾いた。







(甘い発作のような悪夢)