獅子座の女、という言葉が昔から妙に好きだった。休日にぶらぶらと街を歩くことがあれば必ずショーケースの前で足を止め、ガラス越しにその女性の宿命について思いを馳せてみたりなどした。抗えない宿命。人は運命を選べない。運命が人を選ぶのかもしれない。きっと必然と偶然なんてものは同じものなのだ。同じものを違う方向から見て、違う名前をつけた。
 こんなことを言ったら笑われる。それどころかこの世界全ての人たちを敵に回してしまいかねない。あの人の成し遂げたことを思い出してごらんよ。お前は一番傍にいたじゃないか。不可能なんてないんだよ。ひと時だって彼のことを忘れたことなんてない。だから絶対に言わない。





 似合わないなあ。無意識のうちに発せられたの言葉に、ヴィラルはたちまち口の端を歪めた。彼を特徴付けるサメのような歯が隙間からのぞく。あきらかに皮肉の形をとっていたので、彼女はあわてて首を振って弁解した。違う、そういう意味じゃないの。しかし彼は芝居がかった身振りで豪奢な椅子に浅く腰掛けると、音を立てて机の上に足を乗せた。挙句組んだりするものだから、それはもうどこからどうみても完璧な悪の総統だった。
「獣人がこんな立派な部屋にふんぞり返るとはな、ということか。だがな、思い出してもみろ。昔はこうだっただろうが。お前たちニンゲンが地を這い…」
「ヴィラル!」
 肩を小刻みに震わせるを正面に見据え、ヴィラルは声を上げて笑う。どこもかしこも悪人だ。やっていられない。趣味の悪い冗談は彼女がこの世で一番嫌いなものだった。彼女は机の上で優雅に組まれている彼の足に力一杯メモリーディスクを投げつけると、すぐさま踵を返した。
「おいおい、期日はいつなんだ?わが補佐官さま?」
 彼の声はひたすらに愉快そうだった。どこにも影など見出せない。かといってそれでいいのだという納得も生まれない。探せば見つかるのであれば、彼女は宇宙の果てまでだって行っただろう。しかしそんなものは比喩だ。行ったところで見つかるはずがない。
 事実、そこには何もなかった。





――あなたはあそこで何を見たの?
 たずねれば、彼は自然と目を逸らした。彼らしくない仕草だったので、彼女は、おや、と思った。しかしあえて追及はしなかった。
――おまえは何を見た。
――わたしは…幸せな世界を見たわ。父と母と、妹がいた。一緒に畑を耕していたわ。
 ヴィラルは視線を彼女に戻した。彼女は穏やかな笑みを浮かべている。彼は黙って、しかしぎこちなく、人のものより一回り大きい右手を彼女の方へ伸ばした。そして二度、続けて頭の上に手を置く。それは幼子をあやす仕草にも似ていたが、あまりにも無骨すぎた。それでも彼女は嬉しそうに俯いていた。
――畑を耕して、汗をかいて働いて、うちに帰ってささやかな食事をしたの。テレビを見ている父の横で、母とりんごを剥いたわ。妹は口の周りを果汁でべちゃべちゃにしていた。本当に幸せだった。幸せすぎて、ありえない世界だった。
 過酷な労働に命を削り取られ、ある日倒れたまま起き上がらなくなった両親。口減らしのため、乳飲み子のころに生き埋めにされたちいさな妹。その事実はすでに彼の知るところとなっていた。そして少なからず彼を苛むちいさな棘となっていることも、彼女は知っていた。
 は一度だけ長く目をつむった。あの世界で耳にした海の潮騒の音を奥で聞いたような気がした。
――それに、
 薄く開いた唇が小さく震える。
――そこにはあなたがいなかった。だから戻らなくちゃ、って、思ったの。
 彼は呼吸を止め、思わずの表情を確認していた。彼女の頬は上気し、緊張ではりつめていたが、今にも泣き出しそうだった。鋭い刃物を喉もとに突きつけられたらこういう顔をするかもしれない。彼はふと、まだ手を彼女の頭上にのせたままだったことに気づき、ゆっくりと手を引いた。代わりに何か言葉を探したが、ふさわしい言葉はどこにも見当たらなかった。
 二人の間には重い沈黙がたちこめていて、その上を夕陽の朱が覆い尽くしていた。穏やかな夕暮れの風景で、現に街のほとんどの人たちが幸せを顔中に称えていた。深い悲しみに打ちひしがれているのはほんの一握り、彼らの身内だけだった。無理もない。その日永久に失われたひとつの命は、彼らにとってあまりにかけがえのないものだった。
 ヴィラルはそっと石を敷き詰めた地面に手を触れる。そこは数時間前にちいさな指輪が音を立てて跳ねた場所だった。
――俺の夢にも、おまえはいなかった。
 彼はあの光景を思い出していた。奇しくもちょうど今の光景と重なる。妻と娘の金色の髪が赤く濡れていて、彼はそれをとてもきれいだと思ったのだ。彼が決してたどり着けない場所。
――だが、それが戻ってきた理由ではない。
 彼女の瞳が翳るよりもはやく、彼はその場所から離れた。






 ヴィラルがグレンのパイロットを辞したのはちょうどその直後だった、とはぼんやりと思い出す。つまり彼女がグラパール隊から離れたのも同時期ということになる。何の真似だ、と問いかけてきた彼の表情は、あの結婚式の後の事件を微塵も伺わせなかった。彼はそう認識していないかもしれないが、少なくとも彼女にとっては大事件だったのだ。それがなによりも鋭利に彼女を傷つけたのだったが、彼には知る由もない。
 なんとはなしに空を見上げると、夜が冷たく視界を覆い尽くしていた。あちこちにきらめく星の光にネオンの光が必死で手を伸ばしている。あの人が、そしてわたしたちが、命をかけて守ろうとしたもの。
 そういえば、と彼女は小さく首を傾げる。そういえば、獅子座の女という言葉は妙に好きだったけれど、どの星が獅子座なのか、実のところよく知らないのだった。地下生活が長いせいで星というものが身近に感じられず、慣用表現だけがひとり走りしていた。それでもそんなことはさしたる問題ではなかった。本気で知りたければロシウにでも訊ねればいい。問題なのは、彼女が獅子座の女などではないことだった。たとえば、結婚式の翌日逃げるように辺境の島に旅立って行き、今もちいさな命に囲まれて穏やかな生を送っているであろうあの人のことを人々はそう形容する。宿命的な欠損など自分にはないのだった。彼のように永遠の時を一人で生きていく必要もない。満たされていると感じる。たとえそれが息苦しさしか生み出さないにしても。
 空を見上げはしたが、そこに何かを見出そうとしたわけではなった。だから、ネオンの光のひとつに彼の姿をみとめたことが不思議で仕方なかった。瞠目するが、同時に確信もする。彼もまた、自分の姿をみとめたのだと。






 一枚のカードキーを何度も機械に通して、ようやく辿り着いたのが彼の部屋だった。補佐官の権限をもってしても彼の私室の鍵だけは開けられない。彼女はその場で足を止め、すがるようにパネルに手を滑らせる。そして小さく彼の名を二酸化炭素とともに吐き出したが、果たして声になったのか、自分でも曖昧なままだった。それでも数秒後に彼女は彼の部屋の中に存在していたので、伝わったのだと思いたかった。
 ネオンの光の中に彼を見つけたと思ったのだが、部屋の明かりはすっかり落とされていた。見間違いか、それともすぐあとに消したのか。居留守を使う気でいたのかもしれない。どちらにせよ、不自然さに彼女は小さく眉をしかめた。彼はもはや睡眠をとる必要などないのだから。
 視線をさまよわせるまでもなく、部屋の奥に彼はいた。椅子に腰掛け、机の上に肘をついて、それでも視線はかたくなに彼女の方を向かなかった。彼女が傍に寄ってもそれは同じだった。代わりに表情が険しくなった。獣じみている、と常々思うのは、こういうとき彼が鋭くとがった歯をむき出しにするせいだった。彼の歯。遺伝子のプールから拾われてきた、悪戯の産物。彼が違う生き物だと実感させられるから、本当はいつも嫌いだった。でも目を逸らすことも叶わず立ちすくんでいて、それが現実だった。彼女は間違いなく彼を愛していた。
「あなたなんて大嫌いよ」
 食いしばった歯の隙間から漏れる声は、自身でもわかるくらいにかすれていた。
「なら出て行けばいい」
「あなたの命令はきけない」
「なぜ」
「わかってしまったから」
「貴様に何がわかる」
「あなたの気持ちの、あなた自身が気づけない部分を」
「は、知ったような口を」
「あなたがわたしの気持ちの、気づけない部分をわかっているようにね。うまく言えないけど…そういうものじゃないかしら。そうやってきっと求めあったり、支えあったりするんだと思うの。それをなんて呼ぶかは、当人たち次第なんだろうけど」
 彼は口をつぐんだ。彼女は流れるような仕草で彼の方に両手を伸ばしたが、彼はあっさりとそれらを長い右手で払った。
「…だが、一時のことだ」
「一時じゃないわ。ずっと一緒にいる」
「無理だ」
「…無理じゃない」
 彼は目を細めた。彼女の瞳から何粒かの雫が滑り落ちるだけの時間が流れた。
「一番の障害はそんなことじゃないわ。すべてをだめにしているのはあなたなのよ。わからないの?あなたがそうしたいと思えば、きっとわたしだって夜ばかみたいに睡眠なんてとらなくてすむだろうし、あなたが望みさえすればわたしはずっとあなたと一緒に生きられる。わたしはあなたの中で永遠の時を生きる」
「…シモンとニアのようにか?」
 咄嗟に、彼女は彼の頬をはたいていた。できたはずなのに、彼は今度ははらいのけなかった。涙はすでに彼女の頬を完全に濡らしていた。
 やがて、彼は小さくためいきを吐いた。そして手を引いて、彼女を抱きとめた。倒れこむようにして彼女も彼にしがみついた。それは抱きしめるという行為ではなかった。ふたりで世界のあらゆるものに対して抵抗する。そう言った方が正しかった。
 彼女の頬を刺す彼の髪は、短く切り揃えられていた。グレンのパイロットを辞めた日に、長い髪は管理職にふさわしくないと彼女がはさみを入れたのだった。以来ずっとこの長さは維持されている。気に入ってくれたのだろうか、頭の片隅で考えていると、唇にちいさな痛みが走った。意を決したのか、それとも諦めたのか。ヴィラルが唇に噛み付いたのだ。血が出ようが、そんなことは関係なかった。ふたりはもうずいぶん長いこと、目に見えないものと闘っていたから。