薄汚れた壁を支えにして歩くが、思うように足は動かず、たいした距離も進めていないのは明らかだった。不甲斐ない体に歯噛みしながら、右手で脇腹を押さえた。まだ弾丸は体内に残っている。
 ふいに背後から気配を感じたような気がして、そんなはずはないのですぐに歩みを再開した。しかし次の瞬間には誰かの両腕に抱き上げられている。とたん、体勢の変化で傷口に電撃のごとく激痛が走るが、が鋭い声を上げたのはそれだけが理由ではなかった。「ちょっと、」
「舌を噛みたくなかったら黙っていろ」
「必要ありません。離して」
「そんな顔をしてよく言えたものだな」
「放っておいて!」
「少し黙れ。借りを返すだけだ」
 吐き捨てるなりリゾットは裏路地を駆け出した。もう何も話す気はない、という気配を露にしていた。表情は険しいが、それはいつも通りの彼の顔だ。強引、とぼやけば、しっかり聞かれていたらしく、この方がはやい、と彼は憮然と言い張る。たしかに、肩を貸してもらうには彼の伸長は高すぎる。その様を想像すると少しだけ笑えてきて、は目を閉じた。
「…ごめんなさい」
 広い胸に額を押しつけちいさく呟いたが、今度は返事は返ってこなかった。

***

 アルファロメオの助手席にをつめ込むと、リゾットは運転席に入った。その拍子に車がゆれ、彼女は小さく眉をひそめた。うっすらと脂汗が浮かんでいる。
「まだ弾は残っているのか」
「…ええ」
「とりあえずアジトに戻る。それまでは我慢しろ」
 のシャツはじんわりと赤く染まっており、ゆっくりではあるもののその範囲は確実に広まっているようだった。リゾットは無言で上着を脱ぐと、手早く彼女の腹を縛った。呻き声と共に、信じられないといった怪訝な視線が送られてくる。車を汚されては困る、と彼はシートベルトを締めながら淡々と言った。この車は今日の仕事のためにレンタルしたものだった。行き場のない顔をしたはシートに身を埋めながら何か呟いたが、エンジンの稼動音に紛れてリゾットの耳には届かなかった。

 タイミングがよすぎるんだよ、と言ったのはプロシュートだったかホルマジオだったか、もはや覚えていない。メンバーの二人の死と共に送られてきたのは彼らの死体だけでなく、人員補充という名目で配属となったひとりの女だった。ボスか、あるいは参謀の息のかかったものであるのは明白で、当然のように誰にも歓迎されるはずもなく、彼女はチーム内でただ淡々と仕事をこなすだけの存在となった。とりわけ、メンバー全員が面倒くさがってやらないような簡単な仕事や面白みのない仕事をまわされるようになった。だが彼女はなにも反論せず無感情にそれらを遂行した。まるで機械だ、とメローネが揶揄すると、彼女は驚いたように目を見開き、少し考え込むような素振りを見せた。だがやはりなにも反論しなかった。それ以来メンバーの間で彼女はしばしばマッキナと評されるようになったのだが、知ってかしらずか、本人は別段何も気にしていないようだった。彼女は周囲のこと、そして自身のことにすらほとんど無関心なところがあった。

 妙な視線を右の頬に感じて、彼は内心ため息をついた。確認せずとも汗の浮いた顔がじっとこちらを見上げているのは気配でわかった。なんだ、とぶっきらぼうに問えば、いえ、と返ってくる。
「なんだか、実感がわかなくて」
「何の実感だ」
「うまく、言えないですが」
「さっきも言ったがこの状況のことなら気にするな。あれは完璧に俺のミスだった。俺はおまえに借りを返すだけだ」
 は少しだけ笑ったようだった。
「やっぱり、警戒されているんですね。別にかまいませんけど」
 今に始まったことじゃないですしね、という彼女の声はひどく穏やかだ。フロントガラスに映る彼女は、顔色がないせいか普段よりさらに冷淡にうつる。
「なら話すか?おまえがここに配属された理由、おまえの帯びている役割。洗いざらい、吐け」
 唐突に強くなった語気に驚いたのか、は言葉を詰まらせるようにして黙った。そして、「なぜですか」静かな声で話し出す。
「その必要性がわかりません。わたしがたとえば何かを言ったとして、あなたはそれを信じますか?信じないでしょう。わたしという存在そのものがあなたたちにとっての疑心なんです」
 今度はリゾットが黙る番だった。
「悔しいが、もっともだな」
 ややあって、ため息と共に吐き出す。
「おたがい、意味のないことはやめましょう」
 はふい、と視線を彼からはずした。そうしてぼんやりと流れていく外の景色を眺めはじめる。来た時と同じ光景であった。もとより二人の間に話すべき内容などほとんどないのだ。言っても仕方ないという気持ちも働いているのかもしれない。どちらにせよお互い視線を交わす理由はどこにも見当たらない。
 いくつかの看板をくぐり、いくつもの車とすれ違うだけの時間が流れた。
「あんなことがあったのに…ボスにたてつくつもりですか」
 ふいに沈黙を破って彼女が口を開いた。
「説明を拒否したかと思ったら今度は質問側か。いい身分だな」
「蹴落としたくなりました?」
「魅力的だな」
「でもあなたはしない」
 すれ違う車のライトがフロントガラスに映るの顔を一瞬だけ染める。普段どおりの表情をしている。なのに、「つき合いは短いけれど少しだけあなたという人間がわかるようになりました」、などといつもの彼女からは想像もつかないような言葉を並べ立てる。すぐさまリゾットは耳を塞ぎたくなった。相手が怪我をしてさえいなければ、右手で首を締め上げていたかもしれない。
「あなたたちの心にはボスに対する絶対的な不信が芽ばえている。ここに配属になって、一番にそれを感じました。最初は、敵討ちがしたいのかと思いました。でも、それとは少し違う気がします。お金や地位ですか?イタリアを牛耳りたいですか?…やっぱり、それとも違いますね。あなたたちのことは根本的にわたしには理解できない。いえ、というよりも、あなたのことが理解できないといった方がいいのかもしれない」
「これ以上お喋りを続けるようなら、本当に突き落とすぞ」
 車はトンネルに入り、車内は真っ暗になった。オレンジ色の光が、フロントガラスの中の二人を、等しい間隔で照らし出していく。
 胸に渦巻く思いならいくらでもあった。底辺に落ち込んだからといって捨てられなかったものなど、それこそ山ほどある。ただ表面に出なくなっただけだ。かといってそぎ落とされ、深く沈むことになったものたちに絶望する必要性は見出せなかった。涙とは無縁のこの身体に、静かな影を落としているだけだ。
 女の表情は窺い知れない。何の感情もこもっていないようにも見える。ふいにリゾットは長い間彼女に感じていた違和感の理由に気づいた気がして、ハンドルを握る手を強くした。スパイの重荷を背負うには、彼女の纏う雰囲気は細すぎるのだ。それも計算のうちなのかもしれない。だが、かりに彼女もまた、犠牲者の一人に過ぎないのだとしたら。
「…それでいいです」
 彼女の声はとても小さかった。そろそろ痛みも限界に達しているのかもしれない。
「なにがあっても…わたしを信じてはいけません」
 トンネルを抜け、白いライトに照らし出されたは瞳を閉じていた。そして微笑んでいた。彼が今まで出会った中で一番やさしく、うつくしい表情だった。