夕方6時20分にチャイムが響いたので、俺は無言で古びた扉をあけた。わずかに開けた空間から女の影がのぞき、俺は思わず視線を上から下へと急降下させていたが、それはそいつが腕に大きな荷物を抱えていたからではなかった。俺の顔をなんの臆面もなくまっすぐ見上げていた女の方でも当然こちらの目線の変化に気づく。つられるような形で自分の首から下をちょっとだけ見ると、「一度家に帰ってから来たから」とどういうわけか少し気まずそうに言う。細身のジーンズに淡い色をした薄手のセーターなどというラフな格好をする彼女を俺はいまだかつて目にしたことがなかった。ただ意外だっただけだ。だから少ししてから彼女が「そのでかい図体をどけてよ」と、なかなか室内へ招きいれようとしない俺にしびれを切らして発した言葉が、いつもどおり飾り気のない彼女のものだったので軽く安心を覚えたほどだった。
「今日は中止だ」
「どうしたの?」
「急用ができた」
「どれくらいの急用?」
「さっきまで全員いたんだがな。突然電話が鳴ったかと思ったらブチャラティが俺以外全員つれて出ていっちまった。それくらいの急用だ」
 彼女は眉をひそめていた。ではなぜ俺だけがここに残っているのかと、胡散臭さも露に問うている仕草だった。ブチャラティの言葉をそのまま使えば、「5人は必要ない」のであり、また、「がここに来たとき誰かいないと、あとで機嫌を治すのは骨が折れる」ということであった。主たる理由はむしろ後者であると俺は確信しているのだが、かといってそれを口にすればますますこいつは臍を曲げてしまうだろう。わかっていたのであえて前者を伝えるにとどめた。しかしなによりも重要なのは誰もいないことではなく彼がいないことなのだ。俺の周りには機微を解するものが少なすぎる。悪態は心の中でだけついたが、視線は自分でもわかるほど冷めきっていた。  の方も呆れを含んだ目で俺を見上げていた。
「これ、どうするのよ」
 彼女の右腕にはワインが二本入った紙袋が抱えられている。仕事帰りの身に鞭をうってわざわざ買ってきたのだという。
「ひとりじゃ飲めない」
 俺は無言で彼女の目を覗き込んだ。そうしてやむなく身体を後退させてを自宅へ招き入れたわけだが、彼女の目は不機嫌なんてものじゃなかった。確かに言える。この行動は俺(と俺以外のメンバー全員)を救ったのだと思う。



 メンバーで何の理由もなく集まって飲むのはそう珍しくない習慣だったが、が俺の家に来るのはこれがはじめてだった。彼女は遠慮なく室内を見渡し、想像していたよりもずっときれいにしているのね、などと勝手な感想を述べると少しの宴会の名残のあるテーブルにワインを置いた。そしてもうひとつ左腕に下げていた方の袋を掲げ、キッチンを借りると言う。その声色はすでに危険域を脱したことを示していて、俺は小さく息をついた。うんざりしているのか拍子抜けしているのかはよくわからなかった。
 が持ってきたのは赤も鮮やかなトマトとモツァレラチーズだった。彼女は器用にそれらをナイフで切り、皿に並べ、オリーブオイルをたらしていく。俺は後ろに立って一連の動作を若干の感心とともに眺めていた。なぜそんな場所に立っていたかといえば、皿やナイフの在り処を訊かれたからだ。
「何か映画とかはないの」
 食べかけのスパゲティやサラダやらで雑然とする机の上に皿をおき、ソファに腰掛けながらそんなことを言う。ない、と俺は必要最低限の言葉で告げる。
「映画、観ないの」
「買ってまでは観ねえな」
「つまらない」
「うるせえな。そもそも俺と映画を観て楽しいと思うか?」
「…たしかに。ロミオとジュリエットも史上最悪のB級映画になるわね」
 そんなわけでテレビ番組を肴にワインを飲むことになった。
 よりによってチームの中で一位二位を争う無口な二人が揃ったというのはなんとも面倒くさいものである。例の騒々しい三人に相槌を打つことを会話の成立と考えるような二人なのだ。交わされる会話などないに等しい。口を開くのはもっぱらワインを流し込むか食べ物を詰め込むためであり、ブラウン管の光の方がよっぽど生き物じみて映る。ソファの端と端に座って、俺たちはひたすらアルコールを摂取していた。ワイングラスなんて洒落たものはないので、お互い水飲みグラスでぐいぐいと赤い液体を喉に流し込んだ。ミスタが持ってきていたものを含めてこの部屋にはまだあと4本のフルボトルが控えている。






 彼女について俺が抱いた第一印象は間違っても好意的なものではなかったが、それ以上にひとつだけ覚えていることがある。
 彼女がチームに加わった日のことだ。ブチャラティが間にはいって彼女と俺たちの名前を紹介した。例によって彼女はぶっきらぼうで憮然としていた。だが、今よりは幾分痛々しい印象を受けたように思う。後で知ったのだが、彼女は何か大切なものを失ってこのチームに転属したということだった。そのせいかもしれない。しかしなんにせよ、事情を知らない俺が、名前を告げる以上口を開く気配のない女と友好的な関係を築きたいと考えるはずもない。
「デイヴ・リーブマンのようなことにならなければいいな」
 彼女が去った後、俺だけに聞かせるような声音でブチャラティがぼそりと言った。歳が同じだったせいかしらないが、俺たちは二人だけで会話を共有することが他のやつらと比べて多かった。なんだそれはときけば、のことだと涼しい顔をして返された。
 デイヴ・リーブマンと?全く話がみえやしない。そもそもそれは誰だ?
 幾度かの応酬の末、それが彼の敬愛するジャズバンドのメンバーであったこと、そして彼の作ったバンドが女性関係のトラブルで悲惨な目にあったこと、などがわかったが、俺はジャズなんて趣味じゃないのでいまいち実感というものがわかなかった。彼にはそういうところがあった。妙なところで疎いのだ。だが実感はなくとも否定は容易にできる。そんなことはありえねえ、と俺は一笑に付した。実際その程度の価値しかなかった。一方で彼は腑に落ちない顔をしていた。
 そのときの表情がひどく記憶に焼きついているのだ。






 ちいさな音がしたので、俺はブラウン管に向けていた視線を横に向けた。がソファから隣の棚の方へ身を乗り出して、なにやら漁っているのが見えた。勝手にさわんじゃねえよ。荒い語調で言ったが、さして気にする様子もなく手に取ったものをまじまじと眺めている。
「アバッキオ、煙草吸うんだ」
 心底驚いたという口調で零す。
「もうやめた。それは前吸ってたときの残りだ」
「やめたの。どうして」
「知ってんだろ。ブチャラティが嫌いだからだ」
 は目を見開いたあと、ややあってこらえきれなくなったのか思いっきり噴出した。続いて声を上げて笑う。なんだよ、と鼻白んできけば、別にい、と笑いを含んだ返事が返ってきた。人を小馬鹿にした笑いだ。
「うるせえな。いいからさっさと戻せ」
 しかし次の瞬間にはの手は煙草の箱をあけ、一本を唇に挟んでいる。
「なんだ、おまえも吸ってたのか」
 ため息混じりに訊けば、あっさりと首をふって笑う。
「年長に見せるために吸えって一度言われたことはあったんだけど。身体が受けつけなかった」
「いつの話だ」
「さぁ…14か15くらいかな」
 彼女の目によぎった影を見逃さなかった。俺はこれでもギャングまで落ちぶれたとはいえ、高校卒業までは法で定められた年齢に達するまで煙草に手を出さないような、そんなまっとうな人生を歩んでいた身だ。自然、眉がひそめられた。
 しかしこっちの表情などおかまいなしにはしれっとした顔で火を要求してくる。煙草がもとあった場所の傍にライターがあるはずだった。はすぐにそれをみつけて、口にくわえた煙草に火をつけたが、一息吸うか吸わないうちに盛大にむせる。予想通りの反応であった。
「こんなのを吸う人の気がしれないなあ」
 表面こそ穏やかだが憎悪の見え隠れする口調だと思った。一体誰に向けて放ったのか。訊ねることは簡単だろうし、なんの頓着もなく答えるであろうの様子はありありと思い描けた。しかし俺の賢しい口は実現を拒む。彼女を想ったからではない。過去を共有することに価値を見出せなかった。あのとき手を取らないでよかったと、胸をなでおろす日が来ると知っているのかもしれない。
 の方もそれ以上何も言わなかった。ただ顔をしかめて、なのに手に持った煙草は離そうともせず、間をおきながら挑むように口をつける。それは誰がみてもちょっとひどいと思うような吸い方だった。控えめに見てもメグ・ホワイトのドラムさばきみたいなのだった。
 我慢ができなくなって、俺も煙草の箱に手を伸ばした。こうやって吸うんだよ、と言いながら手は滑らかに動く。いかに習慣が身体に染み付いているものなのかを俺は知った。大きく紫煙を繰り返し吐き出すのを、はしばらくの間子供のような懸命さで見上げていた。
「わたしの何十倍もさまになってる」
 彼女はひっそりと笑う。当然だ、と返しかけた口は途中で動きを止めた。なぜだかはわからない。自分がどんな顔をしているのか想像もできなかった。



 やがて、は誰かの飲み残しのグラスに煙草を放り込んだ。瞬間の火の消える音が妙に現実の音として響き、俺を遠くから引き戻した。ルージュのつかないフィルターがじわりと赤く染まっていく。
 彼女は手を伸ばして、疲弊した身体で買ってきたという白ワインをあけた。なんとはなしにラベルに目をやれば、俺の好きな銘柄であったことに気がついた。俺はとっさに、大きな音を立ててコルクを引き抜いた彼女の顔に目をやっていた。の方も気づいて不敵に笑う。
「『君はなんて冷たいんだ。氷のようだ』」
 空になっていた俺のグラスにワインをそそぐ。
「『昨日はグレコワインでさえ君の心を溶かすことができなかった』」
 朗々と歌い上げる声が室内を打つ。自分のグラスにもワインを満たして、軽く掲げてみせる。
「のみましょう。ポンペイの詩人に敬意を表して」



 気づいたときには、いつのまにかボトルはすべて空になって転がっていた。最後の方の記憶は曖昧だ。グレコをあけてしまってからはほとんど惰性でアルコールを流し込んでいた。
 酒気を帯びていそうな髪をかきあげる。すると、ライターの摩擦音がした。ぼんやりと顔だけ隣に向ければ、が懲りずに煙草を咥えていた。やめておけ、という俺の声など無視だ。もしかしたら聞こえていないのかもしれない。
 アームレストにもたれた、というよりはむしろしな垂れかかっているフランカの顔は、疲労の色濃く憔悴して映った。仕事帰りの身に鞭打って、というのは誇張ではなかったということなのだろう。白を通り越して蒼白の顔、血の気のない唇。長い睫毛は伏せられ、隈の上にさらに陰影を落としている。死人のようだ。そんな縁起もない考えが不意に胸をついた。身じろぎもしないのだ。口元のタバコだけがじりじりと短くなっていく。
 手を伸ばして煙草をそっと引き抜く。彼女はすでに眠っていた。人を救うのが真実だけではないことを、俺は頑なに確信している。