寝ぼけ眼の部下をおいて、彼は操縦室を後にした。どこまでも広がる海原とどこまでも広がる空は暗く沈んでいる。今日は見える星もいくぶん少なかった。彼は大きく伸びをして強張った身体をほぐす。ふいに甲板に人の姿をみとめて彼は目を細くした。



 彼がそちらの方へ足を向けたのは、単純な好奇心からだった。今回の仕事にはとある二人組を同行させるというボスの指令がくだり、出港日に姿を現したのは明らかに堅気ではないだろうと知れる顔つきをした男と女であった。何かしら後ろ暗い命令を負ってやってきたのだということはすぐに知れた。二人のもつ鞄には間違いなく銃だか爆弾だかの類が詰まっているにちがいなかった。
 女と男はどちらともすすんで船員と打ち解けようとはしなかった。胡散臭さが壁を作っているのだ。しかも二人ともそれを自覚していながら全く気にかけていないという様子なのだった。女の方は話しかければこたえたし、世間話に混じることもしばしばで、それなりに世の中を渡っていく術は身についているようであったが、男の方は完全に人とのかかわりを拒絶していた。まったく口を開かないのだ。しかも船員たちの前では相方である彼女にすら話しかけないのだから、その異様さは相当のものだった。




「こんな夜中に彼女をひとりにしていいのかい」

 甲板の手すりに細い腕とあごを乗せて煙草をくゆらせていた男は、振り返って気安く近づいてくる男をみると露骨に嫌そうな顔を作った。整った顔をしているが、色気よりも冷淡さが前面に押し出されている。身長は高く、筋肉もそれなりにあるのだが、いかんせん肉づきが破滅的に悪いので華奢といわれてしかるべき体型をしていた。そのせいか、纏う雰囲気は男とも女ともとれる微妙なものであった。

「船室の防音性なら保証するぜ」

 隣に立った彼を、男は虫けらでも眺めるような目で見ている。だが立ち去る気はないようだった。手の中の煙草はまだ火をつけたばかりで、つまりはそれが男をここにとどめる原因となっているらしかった。男はすぐに視線を水面へと戻した。

「あんた、あいつの恋人かい?」

 返答の代わりに紫煙が吐き出される。男の表情からは本心は読み取れなかった。潮の音だけが周囲を包み込んでいる。

「あんたがここにいるっていうなら、俺がかわりに行っちまうぞ。いいのか?」

 男は口の端をひいて、どうやら嘲笑したようだった。手すりの上で組んだ腕に頭を預け、ふたたび煙を吐き出す。不本意なことに彼は肌があわ立つのを感じていた。そのさまはひどく妖艶だった。「やめとけやめとけ」

「アンティパストにもならないような女だぜぇ?玉も棒もひき千切られて、代わりにベレッタで穴ひとつ増やされて女みてーになっておしまいさ」

 はじめて間近に聞く男の声は、普段の冷淡さからは想像もつかないような軽々しい声であった。一瞬、呆気に取られるように目を丸くした後、彼はゆっくりと目を細める。

「そうかい、それであんた、女みたいなんだな」
「生憎こいつは自前だよ」
「なんだ。思ってたよりちゃんと喋れんじゃあねえか。声帯でもなくしてんのかと思ってたぜ」
「なくしてたらあんたと喋んなくてすんだのにな。残念だぜ。当てが外れたな」
「まあ、あんたが嫌な奴だろうって予想は大当たりだったがな」

 男は声を上げて笑った。そうして吸いかけの煙草を海面へ向かって放り投げる。赤い光は軌跡を描いて船の下へと消えていった。世界が汚れることに何の感慨も抱いていないらしい。
 男は手すりから身体を起こして、一度だけ大きなあくびをする。そうして彼の方へと顔だけで向き直りながら、口元を歪めて笑った。

「あんな女大ッ嫌いだよ」

 風に吹かれて金色の髪がなびく。その間でにぶく瞳が光る。

「見てると嫌なことばっか思い出す」
「じゃあなんで一緒にいるんだ?」
「うるせーな。あんたには関係ねーだろ。なんにも知らねーくせに」

 男は顔を歪めていた。いたって冷ややかな表情をしているのに、いつ飛び掛ってきてもおかしくない狂気がのぞいている。急所を切りつけられた野生の動物のようだ。実際、彼は男のアキレス腱に触れたのだろう。

「…何にもしらねぇから興味がわくのさ」

 男は踵を返し、あっという間に船室へと消えていった。
 彼はやれやれ、とため息をつき、その拍子に足元にいくつもの吸殻の山をみつけて悪態をついた。