その日、議員であるダッラ・リッツァ氏は、一日の職務を終えて帰宅するところだった。自宅へは車二台分の護衛がつくことになっている。常日頃から護衛とは縁のある彼だったが、これほどまでに厳重な庇護を受けるのは人生で初めての経験だった。というのも、彼は先日、議会でとある法案を提出したのだが、それが彼を目の敵にする議員や町を牛耳るマフィアにとって非常に不都合なものだったので、万が一を危惧した国が彼のためにこのような重装備を手配してくれたのだった。
 彼は後部座席に座り、運転は彼の秘書が行った。他愛もない雑談に花を咲かせながら、車は帰路を緩やかに走った。高級な車に、訓練された運転技術。誰もがうらやむ生活。
 来週は氏の娘が10歳の誕生日を迎える。この日のために特別に作らせたテディベアを贈るつもりなのだという。彼が一方的に語るサプライズパーティーの計画の一部始終を、未婚の秘書は暖かい気持ちになりながら聞いていた。権力を思いのままにする議員であれなんであれ、父親という生きものはおしなべて目元を綻ばせるのだ。
 すると、ふいに、なんの前触れもなく、どん、という地響きのような音がし、秘書はアクセルを強く踏み込みすぎ、あわや前の護衛車に激突、という事態に陥りかけた。すんでのところで足をひきとめ、彼はバックミラー越しに氏の顔を見た。氏の方も青ざめた顔で秘書の方を見ていた。おどろきと恐怖とがちょうど半々に交じり合ったような表情をしている彼の背後では、大きな煙と炎が上がっていた。後方を走っていた護衛車の姿は影も形も見当たらない。爆弾でも、積まれていたのだろうか。背筋が冷えていくのを感じた瞬間、何かが煙の中からこちらへ向かって一直線に迫ってくる影がみえ、秘書は喉の奥をひきつらせた。
 エンジン音を響かせて、あっという間に距離はつめられる。それはバイクだった。前のシートでは奇妙な格好をした男がハンドルを握り、後ろのシートには若い女が座っていた。奇天烈なマスクに羞恥心があるのかないのか分からない露出を施した服に身を包む男に比べれば、後部座席の女は至極まともな人間に見えた。しかし彼女もまた最悪の来訪者であることに間違いはなく、その証拠に彼女は子供の身の丈ほどもある銃をかまえており、しかもその照準はぴたりとこちらへと合わされていた。銃先はまったくぶれず、彼女が驚くべき身体能力の持ち主だということを如実に示していた。
 どこかで見たことのある銃だ、と氏は思った。(そうだ、この前映画でみた…)
 次の瞬間、その銃は(正確に言えば自動小銃だったが)火を噴いていた。蛙がつぶれるような音。秘書の頭が赤く染まる。途端、オートマチックの弾が続けざまに車のボディをうがっていく振動が響き、氏は咄嗟に身を伏せた。銃が弾を発射する音。空薬莢がアスファルトをうちつけていく音、車がひしゃげる音。音の嵐。
 ふいにまたひときわ大きな音がきこえ、銃弾の嵐がやんだ。おそるおそる顔を上げてみると、前の護衛車から援護射撃が入ったのだった。体勢を崩したのか、暗殺者たちは攻撃の手をやめ、互いに悪態をつきあっていた。

「ちょっと!ちゃんと運転して!」「おいおい、無茶言うなよ。いくら俺でもこんな荒い運転ははじめてなんだぜ。ああ…ほら、血が出てる」「全身の血をぶちまけたいの…!」「ベネ!その顔、スゴクいい!俺あんたのこと不感症だと思ってたけど、誤解してたみたいだな。その表情、ディ・モールト・セクシーだぜ?」「殺してやる…!!」「いいねぇ、一緒に死ぬかい?」「あんたが運転手じゃなかったらもう殺してるわ!!」「いててて…ああ、勃起しそうだよ。ベネ…」

 そんなことをぎゃあぎゃあわめきあっている。
 秘書の死体の足がアクセルにかかったままなのか、車は速度を増していく。
 女の銃が前方を向き、ふたたび銃声が響く。すぐに前方の車も火に包まれる。火の玉が近づいてくる。車は止まらない、あの火に包まれて自分は死ぬのか…
 恨みを込める気持ちで暗殺者たちの方を見れば、女の銃が再びこちらを向いていた。まったく、仕事熱心なやつらだよ。男はマスクにかくれていない部分で明らかに恍惚とした表情を浮かべていた。殺気を浮かべた(心なしか、数秒前よりおどろおどろしさが増している)女と目が合う。次の瞬間には心臓に衝撃を感じており、あっという間に視界は火に包まれた。










 ダッラ・リッツァ議員暗殺の知らせはまことしやかにイタリア中を駆け巡り、すぐにカラビニエリが出動して犯人捜索に乗り出したが、その町にいる誰もが、カラビニエリも含めて、徒労に終わるだろうことを理解していた。暗殺者とはそういうものだった。
 目撃者の証言に従って彼らを追跡した先は、犯行現場から二度ほど曲がったかび臭い裏路地だったが、そこは行き止まりであった。
 カラビニエリの捜査にたまたま居合わせた浮浪者が、ふたりの人間を乗せたバイクが猛スピードで走ってきたかと思うと壁に吸い込まれるようにして消えていった、あいつらは化け物だ!、と狼狽した様子でわめきたてていたが、大方、酒の飲みすぎで幻覚でも見たのだろうと誰ひとりとして相手にする者はいなかった。彼の指差す先には、錆ついた姿見が無造作に打ち捨てられてあった。