いつからその館にいきものの気配が漂うようになったのか、誰一人として確かな記憶を持つ者はいなかった。ある者は年端もいかない少女が猫のように飛び出してくるところを見たといい、ある者は強面の男が庭を闊歩しているのを見たといい、またある者は妖艶な美女が佇んでいるのを見たというが、どの証言も一致することはなかった。だからこそ、ならずものたちに目を付けられるのは当然の流れともいえる。
 ある夜のこと、その盗人は息をひそめて大仰な石の門をくぐった。古くに建てられた建造物であるらしいその館は、まるで廃墟のように中身がまるでないのだった。石製のエントランスは壁どころか床すらも剥きだしのまま、窓からの月明かりをぼんやりと照らし出すだけで、ひたすらに盗人の心臓を不快に逆撫でた。
 人の気配はおろか、いきものの住み着いた痕跡などどこにも見当たらない。耳にした噂は出鱈目だったに違いない、と盗人が踵を返そうとした瞬間、ふいに彼の目を奪ったものがあった。左手の階段を、こつこつという無機質な音とともに降りてきた少女の姿だった。彼女は紺色の使用人服に身を包み、不思議そうな顔で彼を眺めていた。

「ペット・ショップは?」

 上品な英語は廃墟には似つかわしくなく、訝しんで暗闇に目を凝らせば、少女の肌は澄んだ白色をしていた。

「まさか、館の守りを放棄したわけではないでしょうね」

 答えを求めて発せられた問いでないことは、彼女の口調が語っていた。しかし、か弱そうな少女の様子に、盗人の中で急速に驕りが頭をもたげ出したのも事実であった。彼は少女の腕をひねりあげようと、石段に向けて歩みを再開させた。なぜこんなところに白人の娘がいるのかわからないが、少なくとも使い道は山のようにある。

「階段を一歩でも上ったら、右足をいただきますよ」

 今まさに危害を加えんとしている男が目の前にいるにもかかわらず、天井に響く少女の声はいやに落ち着いていた。もちろん彼は迷わず石段に足をかけた。瞬間、彼はバランスを崩してその場に倒れこんだ。彼の右足は付け根から忽然と消えうせていた。痛みと出血は一拍遅れてやってくる。絶え間なく噴きだす自らの血を目にした彼は、恐怖にかられて叫び、咄嗟に石段を降りようともがいたため、彼女が頭上から冷たいまなざしを注いでいることに最期まで気がつかなかった。





 なんの騒ぎですか、という若い男の声に彼女が振り返ったのは、盗人が完全に絶命してまもなくであった。

「テレンスさま」
「わたしの部屋まで聞こえていましたよ。DIOさまのお邪魔になったらどうするつもりですか」
「申し訳ありません。警告のつもりだったのですが」

 彼女は紺色のスカートを揺らし、不機嫌な様子を隠そうともしない上司に向かって小さく会釈をした。テレンスはしばらくのあいだ死体と成り下がった侵入者を汚物を見るように眺めていたが、やがて苛立ちも露に彼女の方へと向きなおった。

「警告も何も。館に侵入したものは誰であれ即刻始末せよ言いつけたのを忘れましたか」
「…申し訳ありません」
「次はありませんよ。わかったら、さっさとそれを片付けておくように」
「はい」
「終わったらすぐにDIOさまのお食事の用意を」
「はい」

 靴底と石の床の触れ合う音は普段よりも強く、上司の機嫌を損ねてしまった証拠としてしばらくエントランスを反響した。音が完全に消えるのを待ってから、彼女は仕事に取り掛かる。

「消えうせなさい」

 その一言で、生きものだった物体は跡形もなく姿を消した。どこに消えたかは彼女でさえ知らない。
 今しがた言いつけられた次の仕事にうつるため、彼女は階段を上った。主の今晩の食事は、夕方町で調達してきてあった。身を清めさせ、衣服をあらためるまでが彼女の仕事で、給仕は執事であるテレンスが行う決まりになっている。自ら町へ赴き食事を済ませてくることもこの気まぐれな主には珍しくなかったが、一刻も早い傷の完治のためには無闇やたらと出歩くことはあまり好ましくない。いつしか主がベットから動こうとしない日には、彼女が町へと繰り出すようになっていた。
 ふいに蹴り上げたスカートにちいさな染みができていることに気づき、彼女は何度か瞬きをした。この館の住人で、人の返り血に眉をひそめる者は誰一人としていないのはわかってはいたが、使用人としてそれはどうなのだろうと彼女は首を傾げた。
 そのとき、音もなく風を切って一羽のハヤブサが開け放たれた窓から入ってきて、一直線に彼女の肩にとまった。岩をも砕く爪に全体重をあずけられ、彼女は思わずよろめいたが、ハヤブサはしれとした様子で羽をたたむ。

「ペット・ショップ」

 嘴の端には血が滲んでいた。

「さぼって自分の食事に行っていたの?それとも、別に侵入者でもいたの?」

 クッ、と一声鳴くと、ペット・ショップは再び窓の外へと飛び出して行った。彼女はやれやれとため息を吐き、仕事に戻ろうとしたが、鳥足の形の泥が肩にこびりついていることに気がついて思わず悪態を吐いた。