雲は白く、空はくっきりと青い。ロシアにいる間ずっと忘れていた空だった。懐かしい、という気持ちになった時には驚いた。どんなに努力したところで、刻まれた記憶は捨てされない。刻まれているのはDNAなのかもしれない。
 腕時計で時間を確認すると、は本を閉じ、隣りのベンチで天下太平の寝息を立てていたアントーニョを揺さぶり起こした。夏のパリは日が長く、太陽は寸分の情けもなく地表をまんべんなくローストしているが、にもかかわらずここの人々は日光浴を満喫している。現代の日本の女性たちが極度に日焼けを嫌悪していることを考えると、とても不思議な気持ちにさせられる。
「ほな、帰ろか」
 伸びをしながら言った彼の目の端には涙がにじんでいる。は頷いて、メトロへの道をアントーニョと並んで歩いた。




 無為に時間を過ごす喜び、というものを、パリに来てから初めて知った気がする。昼前にのそりとベッドから抜け出し、コーヒーを胃に流し込んでいると同じくようやくおきだしてきたアントーニョが加わり、それで連れだって出かける。メトロに乗る時もあるし、乗らないでサンジェルマン通りをぶらぶらとすることもある。気が向けば美術館にも足を運ぶし、今日のようにチュイルリー公園で日光浴(アントーニョはシエスタ)をすることもある。夕方になるとフランシスのカフェに戻って彼手製の夕食を食べる。そのあと店仕舞いを手伝ってから三人でどこかへ飲みに繰り出す。部屋でフランシスが選んできたワインを飲むこともある。そうしてあっというまに深夜になるので、酔ったままベッドにもぐりこんで眠る。
 2か月ほど前、イヴァンさんにいきなりパリに連れてこられた。翌朝、シャルルドゴールのホテルで目を覚ました時にはとなりのベッドはもぬけの殻になっていて、代わりに見しらぬ人の名前と住所と電話番号の書かれた紙がクレジットカードの下に敷かれて放り出されていた。言葉も分からない異邦の地に連れて来られ一体どうすればいいのか。泣きながら紙の住所の扉を叩いたのだが、全裸の男が出てきたので瞬く間に涙もぶっとんだ。めったにしない二日酔いで、朝起きたら服がなくなっていたのだ、と彼―フランシスは弁解したが、居候をはじめてそう間もないころから彼の酒にまつわる逸話はこと欠かなかった。心細さと不安はとっくの昔に忘れていた。




 メトロを降り、高名なカフェの連なりを横目にいくつも路地を曲がる。
「俺の店も、大通りに面してたらよかったのにねぇ」
 フランシスはよく笑いながら零したが、心の中では微塵も思っていないことは明らかだった。ひっそりとしていてごてごてと飾らないがどのカフェよりもお洒落なのが彼の店の魅力で、それを目当てに通う客が後を絶たないことを彼自信よく知っていた。それに、彼の適当な経営では大きくしたところですぐに潰れてしまうことは目に見えている。
 珍しく、今日は外のベンチには人一人いなかった。みれば、ガラス戸には早くも「ferme」の看板が出されている。  いくらなんでもこんな早くに店仕舞いするとはいい加減な、と不思議に思いながらドアノブに手を伸ばすと、アントーニョがそれを阻んだ。抗議の視線を向ければ、顔が若干ひきつっている。
「何?」
「あー、うん、まあ…なんや、ちょっと待っとき」
 を押しのけて体を滑り込ませると、足音を忍ばせて厨房の方へ向っていった。納得のいかないも彼にならって忍び足で後に続く。アントーニョはジェスチャーであっちへ行けと示したが、が頑として動かないことを見るとあきらめて口元に人差し指を持っていった。は頷き、厨房と客席とを隔てているドアの、上の方についた小窓をアントーニョと一緒に覗き込む。
 右手の方、ちょうど影になっていて見えないが、フランシスの金髪がちらちらと動くのが見えた。しかし一人では、ない。
 扉から体を離して、アントーニョと顔を見合わせた。
(いっつもこうやねん)
 小声で囁く彼の顔はげんなりとしていて、これが彼らの間に幾度も起こった出来事だということを物語っていた。
(外で待とう)
 言葉にせずともお互いの気持ちはひとつ、「関わるのはまっぴらごめんだ」の一点に尽きた。再び忍び足で入口へ向かう途中、ふと気づいたようにアントーニョは方向を転換した。何をするのかと思えば、カウンターの中に入ってエスプレッソを淹れ始めたので、は目を疑った。エスプレッソマシーンはものすごい音がするのだ。愛の営みに夢中になっている彼らが気づくかないかどうか、あまり自信はない。
 カップをふたつ持って戻ってきたアントーニョは、ひとつをに手渡しながら言った。
「なんでそんな顔してるん?」






 最低限の礼儀が働いたのか、どちらからともなく店に背を向けてテラス席に座り、肩を並べて建物の向こうの空がうす暗く染まっていくのを一杯のエスプレッソとともにぼんやりと眺めた。
 腹減ったなぁ、とアントーニョがぼやいたところで背後の扉が開いた。
「おー、お疲れさーん」
 アントーニョは呆れかえった声を隠そうともしない。それどころか、視線すら合わせようとしない。でなんとなく気まずいのでやはり視線は空に固定したままなのだった。
「こんな遅くまで仕事なんて大変やねぇ」
「皮肉はアーサーだけにしてほしいね。ったく、審判のラッパをきくときってのは、きっとあんな心地なんだろうね」
 彼の声には疲弊と苛立ちがにじみ出ている。
「お相手さんは?」
「裏口から帰ったよ。あのねぇ、もうちょっと気を利かせてくれてもよかったんじゃないの?」
「逆にもえるかと思ったんやけど」
 フランシスは盛大にため息を吐くと、別の椅子をひいて腰掛けた。そして懐から煙草を出してゆっくりと燻らせ始める。やってられない、という彼なりの意志表示なのだろう。
 かくして、三人が三人同じ方向を向き、死んだ目で空を眺めているという構図が出来上がったのだった。人が通りがかったらかなりぎょっとするのではないだろうか。しかし幸運なことに人どころか野良猫すら通らなかったので、悪評をまきおこして営業不振、という結末にはいたらなった。
 煙草が1本、吸いつくされるだけの時間が流れた。フランシスは吸い殻を無造作に足元に放って踵で踏みつけると、
「君たち、お腹すかないの?」
 陰鬱な声で言った。
「すいてんでー。もーずーっと前から」
「わかったわかった。奢ればいいんだろ」
も何か言うたったれや」
「日本食が食べたいなぁ!」
 真っ先に立ち上がり、にっこり笑いかけると、ふたつの抗議の視線とぶつかった。それでも彼らはしぶしぶ日本食レストランへを連れて行ってくれるのだろう。
 確信と安心だけがあった。