世界史をするのにうんざりしていた私は、家庭教師が席を外した一瞬の隙をついて窓から逃げ出した。歴代国王とそれに追随する主だった官僚の名と業績の暗記を命じられたわけだが、どう考えても、それこそ逆立ちしたって覚えられそうにない。それに、さも自分の栄光であるかのように歴史を語る、あの世界史の教師の独善的な態度は最初から気に喰わなかったのだ。からっぽの勉強部屋を目の当たりにしてティーカップを取り落とす伯爵夫人の顔を想像すると自然と笑みが漏れた。いい気味だ。

 手に入れた余暇はマリアンヌ様の離宮で過ごそうと決めていた。というよりも、そこしか行ける場所がなかった。私は皇位継承権はもっているけれど、上から数えるよりも下から数えたほうが早い程度の位だった。母親の家柄は古臭い歴史だけが取柄の落ちぶれ貴族で、母は一族の悲願を背負ってシャルル帝に嫁いだ。正妻になれずとも、寵愛を受けていれば違っていたのかもしれないが、母は当然のようにその他100人の妃たちに埋もれ、私を出産したあとの産褥で17年の生涯を閉じてしまった。

 そんな後ろ盾のない私を受け入れてくださる物好きはマリアンヌさまくらいのものだ。マリアンヌさまにしたって身分は高い方ではないが、それでも私とルルの皇位継承権にある開きを考えればとても光栄なことだった。身分のことを抜きにしても私はルルとナナが大好きだった。





 けれどその日、アリエス離宮に入ることは出来なかった。考えればわかったことだけれど、ルルもナナも勉強中で執事にとりあってもらえなかったのだ。執事が不信感を抱き出す前に、私はその場を早足で離れた。
 かといって、鬼の家庭教師の待つ自分の離宮にすごすごと戻るわけにも行かない。仕方なく離宮からほどないところにある木に登ってルルたちが出てくるのを待つことにした。打ち捨てられた面持ちで立ちすくんでいるこの木の名前を、私は知らない。ぞっとするほど悲しい木だった。勝手に芽を出して勝手にすくすくと育ってしまった、どこか過ちめいた空気をまとっているのだった。自分と重ね合わせたのかもしれない。私はときどき気の向くままこの木に登ることがあった。
 離宮の周囲はマリアンヌさまのご趣味ですべて庭園になっていて、木の上からだとその様子がよく見渡せた。惜しむことなくあちこちに植えられたバラたちはマリアンヌさまが愛してやまない花だ。庭師を新しく雇う時には、まず何をおいてもバラの手入れの腕を見るのよ、と、マリアンヌさまは誇らしげにおっしゃっていて、一株一株誇らしげに咲き誇るバラたちは、たしかにマリアンヌさまの慧眼の証明であった。
 ふいに空気が騒いだ。
!」
 気がつくと、木の下にルルがいた。小さな肩をいからせて、ぜぇぜぇと息をしている。お屋敷の方から走ってきたのかもしれない。かわいそうに、この子はあまり体力がない。
「エリザベータ先生が、血相を変えて飛び込んできたんだよ。さまがいらっしゃらない、って」
「うん」
「また、さぼったんだね」
 私は笑った。するとルルの瞳に陰りのようなものが見えて、気づかれぬよう枝を握る手に力を込めた。
 私より少し遅れてこの世界にやってきたルル。それでも皇位継承権は私よりもはるかに上のルル。ナナにだってあっけなく抜かされてしまった。新しく弟妹の増えるたび、お祖父さまの顔のくもっていく様子といったら。
「戻ろうよ」
「なぜ?」
「ぼくたちは学ばなければならないんだよ。皇族の一員としてこの世に生を受けたものの、これは義務だよ」
 私は枝をするすると伝い、木からすとんと飛び降りた。焦っていつもより高いところで足を蹴ってしまったせいで、体の芯がじんわりと痛んだ。ルルは悲しさと怒りの入り混じった複雑な表情をしている。ついさっきまではるか下にあったルルの目が一転、すぐそばにあった。そのことに奇妙な違和感を覚えた。
「ぼくがそそのかしたんだってことにするんだよ」
 そんなことを言って、憎しみの一片も混じらない右手を差し出す。私は無言でその手をとった。彼の手は汗でしっとりと湿っていて、なんだか変な生き物を掴んだみたいだった。私の頭の中なんて想像もつかない聡明なルルはそっと微笑んだ。その笑顔があまりにあたたかかったものだから、私は言おうと思っていたことをすべて忘れてしまった。それはたとえば、誰も寄り付かないがらんどうの離宮に充満する時間と死のにおいのことや、広すぎるベッドのまとう無の空気のこと、出世の目論見が外れてヒステリックにがなる家庭教師たちのこと。そして、本当はこの庭園のバラなんて全然好きじゃなくて、むしろその陰にひそりと咲く、クロッカスやパンジーやすずらんみたいな野の花の方がもっとずっときれいだというような、そんなささやかなことであったりしたのだけれど。そのあまりの果敢なさに私は笑った。
 手をつないだままどちらからともなく屋敷への小道を歩きだすと、まひるの風が私たちの髪をなぜた。
「今日は夕食のあと、母様がピアノを弾いて下さるんだ」
「うん」
「ナナリーは讃美歌を歌うんだよ」
「ルルは?」
「ぼくはバイオリン。とナナリーが一緒に歌うところを聴きたいな」


 私は将来、この皇子のために命を落とすだろう。それは予感ではなく確信だった。