機関のトップの人たちの部屋を抜け出すと、知らずため息が出た。
――――思ったより平気そうですね
 彼らは意外そうな顔で言った。まだ若いから、重役のプレッシャーに押しつぶされてはいないかと心配だったんだよ。本当に親身な面持ちでこちらのことを心配してくれていた。
 玄関で待っていたタクシーに乗り込み、自宅まで帰った。運転手も何かと気遣って話しかけてくれたりもした。機関の人は意外にも優しい。架空の話にありがちな闇の側面を持った暗黒結社というのはそうそう現実にはないのだろう。
 タクシーから降りた後、僕はなんとはなしに自分の部屋のあるマンションを見上げていた。背後の黒のカンバスの中に星はひとつとしてない。マフラーの音が遠ざかって、やがてフェードアウトしていった。僕はゆっくりとエントランスへ足を進める。とにかく体中が休息を欲していた。閉鎖空間に入ったわけでもないのにこのあり様は僕にしては珍しい。
 ガラス扉に手をかけたところで、ふと、横の茂みになにかがいることに気がついた。電灯がついているとはいえ、その部分だけ暗がりになっていたので、気づけたことが不思議でならなかった。緑の植え込みの間から、足が二本のぞいている。慎重に近づいて植物の枝をかきわけると、背筋が凍った。二対の氷のような瞳が暗闇の中からまっすぐにこちらを見上げていた。
「古泉くん、」
 それはさんだった。でもさんではない何かだった。外見はどこも変わったところはない。しかし彼女の中の何か決定的なものが変わってしまっているのがわかって、らしくもなく心の中で毒づいた。まただ。
「連絡して下さいと、言ったではありませんか」
「携帯、壊れちゃったの」
 鋭い眼光に反して彼女の声は弱弱しい。
「どうしてここがわかったんですか」
「わかんない。わかんないけど、わかっちゃったのよ。古泉くんの家はここだって・・・でもどういうわけか全然中に入ることはできなくて・・・」
「とにかく、一緒に来てください」
 手をひこうとすると、ものすごい強い力で抗われた。ぎょっとする。今の力はどう考えても一女子高生の握力ではなかった。痛みをうったえる右手を見て、思わず凝視してしまう。なにかかさかさとしたものがついている。爪でかけばすぐに剥がれる、これはまるで・・・
「古泉くん、私ね、人を殺したの」
 そこで初めて彼女の服が血で真っ赤に染まっていることに気がついて目を見張った。影だと思っていた口まわりの黒い染みすらも血痕で、僕はとっさにあらゆる可能性をスキャンしていた。思い当たったのはひとつしかない。
「古泉くん、私、人の血を・・・」
さん、落ち着いて」
「喉が、かわいて・・・」
彼女の口元でふたつ、鋭い犬歯がぎらりと光った。