久しぶりに見る石の壁は昔と同じように古臭くて、時の流れを感じさせなかった。ここに来る度、もしかするとまだわたしは子供のままで、時など流れたと勘違いしているだけかもしれない、という思いにとらわれた。扉をくぐれば夢から覚めて、怖かったと泣き、そして最後にはほっと安堵の息をもらせるのかもしれない。しかし昔のあの無知だったころの自分は、果たして本当に自分だったのだろうか。不思議なことだが、確信はいつになっても生まれなかった。まったくの別人だと言われたほうがよっぽど納得がいく。きっと昔の自分はまだこの中から抜け出せずにいて、人ではない悪夢のような部分がうっかり人の形を取って動き始めてしまったのだろう。 何年かに一度、こんなふうに、感傷の隙間の中にまっさかさまに落ちていってしまうことがあった。計らずもそれが今日だった。そうして人通りの少ない裏路地で石の壁をぼんやりと眺めていると、背後に人の立つ気配を感じた。あまりに馴染んだ気配だったので、わざと名前を呼ばれるまで気づかないふりをした。

「何をしているの?こんなところで」

 悪びれもなく話しかけると、ブチャラティは小さくため息をついた。

「それは俺の台詞だ」
 ついさっきまで、わたしはこの男の後ろについてネアポリスの街を巡回していた。道を歩けばブチャラティ、ブチャラティ、とあらゆる人種からやかましく話しかけられる彼のことである。すぐさま同業者やら組織の庇護を求める商店の人やら、あげく非行少年の相談をもちかける中年女性やら、様々な人々がまとわりついてきた。彼は嫌な顔ひとつしない。それが彼の本心だからだ。彼を尊敬できないほどわたしは愚かではない。だからなぜ足が彼から遠ざかるのを選んだのかは説明できなかった。酩酊状態にでもおちいっていたのだろう。

「離れるなら離れるで一声かけろ。おまえを探すのは骨が折れる」

 不機嫌そうに言う。恨み言はわたしの方を向いていたが、視線はわたしの背後にあるものに向けられていた。わたしもつられて後ろを向いた。「この孤児院のことを知っている?」目を合わせないまま口を開く。

「いや」
「この孤児院ね、けっこう歴史のあるところらしいんだけど、あるときひどい悪魔が院長になってね」
「悪魔?」
「私腹を肥やすことしか考えていなかった」
「ああ…」
「そりゃあひどい有様になったわ。ここの孤児たちは人身売買にだされていったの。きいた話じゃ売春やらスナッフフィルムやら、ありとあらゆるいかがわしい業者に出荷されたらしいわ」

 そこで少し黙った。相槌を求めたわけではない。背後の彼は何も言わなかった。

「そう珍しいことじゃないらしいわね」

 眉をひそめるほど抑揚のない声には、それでも明らかに笑いの色が混じっていた。不謹慎だと自分でも思ったが、やはり彼は沈黙を守っている。

「でも、ある時からこの孤児院だけはギャングの保護を受けるようになった。それで、まあ、もとの良心的な孤児院に戻ったってわけ。悪魔の院長たちはいつのまにか消えたわ。きれいさっぱりね」

 どこに消えたのかしらね、と喉の奥で笑う。すると靴が石畳をこする音が聞こえた。彼が重心を移動させたのだとすぐさま気づけたのは、周囲にまるで音というものが存在していなかったからだった。この壁の向こうで子供たちが身を寄せ合って暮らしているとするなら、この無音はあまりにも非現実的すぎる。その事実に、彼は気づいたのだろうか。

「でも、ほんのちょっとの間の話だったわ。二年経った時に新しい院長が死んでしまって、それでこの孤児院は閉鎖したの。もう何も残ってないのよ」





 少しの間、直立不動のままで壁を見ていた。妙に胸の奥がうずいて、気を抜くと目が零れてしまいそうだった。けれど目を瞑ればいくつもの終わりが見えるので、それすらもできなかった。
 ブチャラティは何も言わなかったけれど無慈悲に立ち去ることもなくずっと傍にいてくれた。泣きたくないことの一番の理由は間違いなく彼だった。彼がいてくれたからこそ泣かずにすんだとは思いたくなかった。

「それから?」

 ひとつ大きなため息をつき、振り返って彼のまなざしに向き合うと、彼は静かにそう言った。ひどく穏やかな、すでに彼の象徴であった落ち着いた声だった。もはややさしさを通り越した声だった。
 あまりに自然にかけられた声だったので、わたしは思わず口を開きかけ、それからゆっくりと頭を振った。

「それだけ」
「そうか」

 彼はわずかに眉を持ち上げ、そして時計を見た。
 何か食ってから帰らないか、と言った彼の声はひどく平生どおりだった。







 指定されたカフェに入ると、指定された席に男がひとり座っていた。かなり前に来ていたらしく、テーブルの上のエスプレッソはすでにからになっている。

「君がか?」

 椅子をひいたわたしを頭のてっぺんからつま先までざっと見て、彼は訊ねた。わたしは鼻で笑った。

「ブローノ・ブチャラティ?あなたが?まだ若造じゃない」

 先手必勝、というわけだ。気分を損なわせるか、あわよくば激墳させるつもりだったのだが、予想に反して彼はひどく不思議そうに首を傾けただけだった。

「君とそうかわらないと思うが。何歳だ?――ああ、女性に歳をたずねるのは失礼だな。忘れてくれ」

 勝手に自己完結をし、そこで終わるかと思えば、女か、とふたたび独りごちる。なんなのだ、こいつは。すでに調子は狂わされつつあった。

「『』ときいていたからまさかとは思っていたが、本当に女だったとはな」
「コードネームか何かだと思いました?あいにく本名です」

 注文を取りに来たウェイターにエスプレッソをダブルで注文し、手を振ってすばやく追い払う。新しい上司はあいも変わらず意図の読めない瞳でこちらを見ている。

「なにを考えているのか知りませんし、知りたくもありませんけど。わたし、もう我慢する必要なんてないんです。指一本でも触れたら、殺しますよ」

 頭がぼんやりとして、ひどく喉が渇いていた。何か大切なものをなくしたのは覚えているが、それがなんだったのがだけ一向に思い出せない。ちらちらと小さな影達が視界の端を横切った気がして、そんなはずはないので頭をふった。ちょうどウェイターがきてエスプレッソを置いていったところだった。倦怠感がひどい。体を支配するものは眠気でも疲労でも悲しみでも怒りでもどうでもいいような気がする。
 目の前の彼は小さく笑った。
 ―笑った?
 目の前のものが信じられなくて、わたしは息をのんだ。

「困ったな。それじゃあ握手ができない」

 彼の声はひどく強く空気を震わせる。わたしは何も言えなかった。
 大丈夫か、と優しい声。

 本当に触らないで欲しいと思った。触られるときっと壊してしまう。それは確信だった。