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ぼんやりとしていて、気づいたときには遅かった。 暖炉の上で乾かしていたマフラーがすれ違いざまに腕に引っ掛かり、火の中にはらりと落ちる。慌てて取り出そうと手を伸ばした時にはじわりと黒い焦げが広がっていた。 「…大丈夫?」 火箸でマフラーの燃えかすを脇に避けながら途方に暮れていると、一部始終を見ていたイヴァンが読んでいた本をテーブルに置いてすぐそばにやってきた。暖炉の中と を交互に見比べている。 「わたしは大丈夫です」 「マフラーは?」 「もう使えませんね…」 灰にまみれた淡い緑は、留学直前に菊がプレゼントしてくれたものだった。どれくらい寒いかわからないから、役に立つかわからないけれど、と、一日中歩き回って、街中で一番分厚いマフラーを買ってくれた。それが留学をめぐる二人の不和の結末だった。 マフラー自体がなくなったこと以上に、そのもつ意味が失われたようで、それが哀しかった。喉の奥は冷えている。は泣きたい気分になった。 そうして火箸でマフラーをいじっていると、少し思案顔だったイヴァンが、ちょっと待ってて、と言い残して居間から消えた。菊になんてメールで謝ろうかと考え、そういえば最後にメールを出したのいつだったっけ、と頭を抱えたところで彼は戻ってきた。手には鮮やかな黄色のマフラーが抱えられている。 「これ、使いなよ」 「…いいんですか?」 「他に持っていないんでしょう。マフラーがないと辛いよ」 はい、と笑顔で差し出してくる。礼を言いながら、脳裏を淡い緑がよぎったが、それでも素直に嬉しいと思った。 のマフラーが変わったことを真っ先に言及したのはフェリクスだった。フェリクスは女心はまったくと言っていいほど理解しない、いわば子供なのだが、女性の服装や髪型には敏感だった。自分の服装の好みが少女的なので、センサーを女性側に張り巡らしているからだろう。 フェリクスは最近買ったショッキングピンクのマフラーがお気に入りだった。似合っているが、一緒に歩くトーリスはいつも浮かない顔をしている。なんでもそのマフラーをつけたフェリクスは少女にしか見えず、しょっちゅうカップルと見間違われるのだそうだ。 「せめて前に使っていた赤いやつを使ってくれればいいのに」 言ったところでフェリクスが聞くはずもないので、自然ぼやきの形になる。ふふふと笑えば、笑いごとではないと怒られるので、は肩をすくめた。 この時期になると、もう外の風は寒いを通り越して痛いに近い。天然の冷凍庫ともなる外気の中、顔まですっぽり覆えるそのマフラーは文句なしにあたたかかったが、しかしかなり埃っぽいにおいがする。長い間、クローゼットの中にしまわれていたのかもしれない。このマフラーをイヴァンがつけているのは見たことがないし、そもそも色あいからしてこれは女性用だった。 様々なことに思いを巡らせていると、ふと、トーリスが足を止めた。続いてフェリクスが足を止め、何歩か遅れても立ち止まる。道路の向こう側にナターリアがいた。あたたかそうな紺色のコートに、ふわふわの純白のマフラーと帽子に顔を半分埋めて、じっとこちらを見ている。 たちまちトーリスが浮足立ったのが気配でわかり、はフェリクスと顔を見合わせた。フェリクスは不機嫌そうな顔をしていて、も目だけで苦笑した。 ナターリア・アルロフスカヤはベラルーシからの留学生で、ボリショイバレエアカデミーに通うバレリーナだ。白人にしてはあまり長身ではないが、折れるように細く、鋭利で美しい顔立ちをしている。美少女という表現がまさにあてはまる彼女は、尖鋭だがしかし重力を感じさせない軽やかな踊りが特徴で、学校内では雪の精だの氷の女王だの、称賛と揶揄と羨望、様々な感情のもつれあう異名で呼ばれているそうだ。 にとってバレエはあまりいい思い出がなく、これまでの人生で積極的に避けてきた。なのになぜプロでもないいちバレリーナのナターリアについてここまで知っているかと言えば、彼女がトーリスの想い人だからなのだった。トーリスは彼女のことになるととたんに饒舌になり、一方でフェリクスは口をとがらせる。絶望的なまでの片想いなのだった。 寒さからでなく、トーリスは頬を上気させている。こういうときの彼は、フェリクスを叱るいつもの大人びた表情を消してしまう。 恋は何とやら。 フェリクスと顔を見合わせていると、不意に隣で動く気配があった。気づけばすぐそばに無表情のナターリアがいた。もう一度トーリスの方を見れば、彼はあっけにとられた表情をしている。 「これ、」 ぐい、と体が揺さぶられる。顔にたまった血で、マフラーを思い切り引っ張られたのだと知った。彼女は生地の裏を確認しているようだった。 「間違いない、姉さんのだ」 とても女性とは思えない力でのどもとを掴まれ、は比喩ではなく息を止める。 「おまえ、これをどこで手に入れた?」 雪のように真っ白な顔に冷徹な視線の中、拡大する瞳孔だけが獰猛な獣のようで、目が離せない。 気づけば、両側からトーリスとフェリクスがナターリアの両肩をおさえていて、は地べたに倒れて咳込んでいた。キン、と冷たい雪がコート越しに体の側面を刺す。 「はやく!」 「…え?」 「、逃げて!」 二人を振り払い、なおも掴みかかろうとするナターリアを認識して、ようやく恐怖がわきあがってきた。フェリクスにぐいと引っ張り起こされ、二人で転がるようにしてその場から逃げだした。 ナターリアの呪詛の声とトーリスの悲鳴に追い立てられるように夢中で街中を走り、フラットに着いて鍵を閉めると、二人はへなへなとその場に座り込んだ。荒い息を落ちつけながらフェリクスをみると、彼は泣きそうな顔をしていた。目が合うと、さらにおびえるように耳を塞ぐ。 「どういうこと!」 「し…知らないし!」 「嘘!」 の語気が荒くなり、フェリクスは頭をぶんぶんとふった。 「俺じゃうまく説明できないんよ!」 「うまく説明してくれなくてもいい!」 「む、無理だし!」 とにかくトーリスが帰ってくるまで待ってほしいと泣きじゃくる。はひとつため息をついて、ドアに頭をもたせた。 「…ナターリアは何?これまできいてたみたいな、ただのしがないバレリーナってわけじゃなさそうだけど」 少しの間フェリクスは沈黙していたが、やがて、これは行ってもいいと思うんやけど、と前置きをしてから口を開いた。 「ナターリアは、イヴァンの実の妹なんよ」 |