朝、起きたら頭が重かった。比喩的な表現ではなく明らかに風邪をひいていた。昨晩髪をよく乾かしもせずに夜更かししてしまったのがいけなかったらしい。 我慢できないほどではないけれど、今日は講義があるわけでもなく、大学周辺をトーリスたちとぶらぶらしようと思っていただけだったので、家での休養を選ぶことにする。 洗濯物を抱えたニーナに廊下ですれ違いざまそのことを告げると、彼女はすぐさまをキッチンまで引っ張っていき、てきぱきと朝食を準備してくれた。あっという間にコンロの上でスープとミルクが湯気を出し始める。はキッチンの小さなテーブルであたたかな朝食を食べた。 「イヴァンさんはどんなお仕事をされているんですか?」 両手をミルクのマグカップで温めながら聞くと、野菜屑の後始末をしていたニーナは首を傾げた。 彼女自身、雇われたのはここ数年のことで、それもほとんど偶然に近い形だったので、この家のことは全く知らないのだという。そもそも彼女は働いた分だけ給料がもらえればそれで十分、自分の権利は主張する代わりに雇い主の領分を侵犯する気もさらさらない、というお手伝いさんの鏡のような哲学の持ち主なのだった。かの有名な日本の家政婦の話をしたら彼女は眼をひんむくかもしれない。 二人で考察しあった結果、おそらく実業家か何かだろう、という結論に落ち着いた。よく耳にするけれど実際何をしているのかいまいちよくわからない職業トップ5。少なくともそう考えてふたをしておくのが一番良い選択肢だろうということになったのだった。 イヴァンは今日は朝早く出かけたが、夕方には帰ってくる、とニーナは言い、キッチンを出ていった。 イヴァンさんの家に居候させてもらえることになった、と伝えると、トーリスは驚くかと思ったけれど、少しの間をおいてから、そう、と一言だけぽつりと頷いた。 「きいていたの?」 「そんな予感がしていたんだ」 もう遅いから泊っていきなよとイヴァンが言い、甘えることにした、客室でのことだった。 トーリスは、と言いかけたところで、彼の方が先に口を開いた。 「いつでも戻って来ていいんだよ」 「普通、『まだいてくれていいんだよ』、っていうセリフが先じゃない?」 彼はもう何も言わなかった。電気を消してからだいぶ時間が経っていたので、眠ったのだろうとは思った。 目を覚ますと、すでに2時をまわっていた。朝食の後すぐにまた布団にもぐりこんだから、完全に熟睡してしまったことになる。 顔を洗ってキッチンへ行くと、テーブルの上にメモが乗っていた。お大事に、と書かれている。もう帰ってしまったらしい。まじめそうに見えて抜きどころはしっかりと心得ている。はニーナのそういうところが好きだった。 ミネラルウォーターをとるために開けた冷蔵庫の中がいっぱいになっていて、そういえば明日二日は彼女のいない日だったと唐突に思い出す。料理はもともと好きなのでキッチンに立つことは苦ではないが、ジャッジがいる分やはり気軽にというわけにもいかない。 コンロで湯を沸かすと、はキッチンテーブルで紅茶を飲んだ。部屋へ戻ってもいいが、なんとなく狭い部屋は気が滅入るので、居間で本を読むことに決める。 暖炉にいくつか薪をいれると、はソファに深く腰掛けて本を開いた。そういえば、この屋敷にはまだ暖炉なんてものがあるのだ。もっと効率的な暖房器具を使うこともできるのに、屋敷の主人が薪の燃える匂いを気に入っているために旧態依然な光景を守り続けているらしい。 ぱちぱちと木がはぜる音に包まれながら、目は機械的に文字を追ったが、寝すぎて重い頭は内容をほとんど受けつけなかった。しばらくしてからは本を閉じ、ぼんやりと炎を見つめた。レンガ造りのペチカ。 いつのまにか、はアームレストに頭を持たせたまま眠りこんでしまった。 「 」 目を覚ますと、時計の針はすっかり進んでしまっていた。暖炉の方を向いて寝てしまったので、顔が熱い。それでも頭と体はだいぶすっきりとしていた。トーリスとフェリクスのフラットのソファは起きるなり背中がばきばきと音をたてたものだったけれど、この屋敷のソファは驚くほど体になじんだ。材質がいいのかもしれない。 ゆっくりとのびをしたところで、足に何かが触れた。驚いて視線を向けると、いつの間に帰っていたのかイヴァンがすぐそばに座っていた。 ぎゃっ、とか、ぶわっ、とか、あまり女性にふさわしくない奇声が出る。イヴァンは手元の本から顔を上げると、ゆったりとした動作でマリエを見た。 「やぁ、起きたね」 「…すみません!」 姿勢を立て直し、あたふたと髪をおさえた。完全に寝起きの顔だ。自然顔が赤くなるのを知ってか知らずか、イヴァンはを見たままおっとり笑う。 「ネコみたいに体を丸めて眠るんだね」 「…そうでしたか?」 「うん。おもしろくてついずっとみちゃったよ」 「見ないでください…」 こういうことをするから、この人は気が抜けないのだ。恨みを込めた視線にも気付かない。 「この本、」 何食わぬ顔で話しだすので、やれやれと視線を向けると、イヴァンの手元の本はがさっきまで読んでいたものだった。 「ツルゲーネフ?」 「ああ…ロシア語で読んでみたいなって思って、昨日から読み始めたんです」 風邪の、そしてつきつめればこの失態の元凶ともいえるこの本。昨日もこれを読んでいて、布団にも入らず髪を乾かすのも忘れた。 イヴァンはぱらぱらと本をめくっている。興味がなさそうにも、真剣に吟味しているようにも見える。 「『取れるだけ自分の手でつかめ。人の手に操られるな。自分が自分みずからのものであること』」 唐突に、非の打ちどころのないきれいな発音で詠いあげる。 そして無言で本を閉じ、に差し出した。 「いいね。ぼく、この言葉好きだなぁ」 の方も無言で本を受け取った。言わなかったのではなく、言えなかったのだ。彼の笑顔は優しいのだが、時々手足が凍りつく心地がする。 「イヴァンさんは、」 やっとのことで口を開いても、どんな言葉も出てきてはくれなかった。どんな言葉も、今の感情を表現するのにはふさわしくないように思える。 しばらくして、イヴァンがソファから立ち上がると、お腹すいちゃったなぁ、とのんびりした口調で言った。は思わず時計を再確認してしまう。 「まだ食べてなかったんですか?」 「だって、寝てるんだもん」 「そんな!放っておいて下さってもよかったのに…」 「だってひとりで食べてもつまらないじゃない」 「だったら起こしてくれればいいじゃないですか…」 頭を抱えていえば、イヴァンはさも愉快そうに笑う。 「…すぐに用意します」 「よろしくね」 食堂の方に向かいながら、ふと、彼は振り返った。その表情は思案顔なのだった。 「さくらんぼ酒があるんだけど」 何を言うのだろう、と思えば、 「甘いお酒だし、弱いよ」 ねだるような、窺うような表情を浮かべてじっと見るのだった。 いただきましょう。白旗を振るような気持ちでが答えると、イヴァンは嬉しそうに手を叩いた。 風邪をひいている最中です、なんて、もちろん言いだせるはずもなかった。 |