王さん、という人がいた。名前から察せられる通り中国人で、私が小学生の頃に1年だけ菊ちゃんの家にホームステイした留学生だった。菊ちゃんの家に留学生が来たのは後にも先にもそれが一度きりで、どういう由縁があって王さんが菊ちゃんの家に来ることになったのかはわからない。
「我のことは哥哥と呼ぶある」
「ぐ…?」
「言いづらかったらにーにでもいいある」
 初めて菊ちゃんの両親から紹介されたとき、彼は偉そうにそう言った。しかもその口調が漫画に出てくる中国人みたいで、にもかかわらずえらく流暢だったものだから、私と菊ちゃんは顔を見合わせて鼻に皺を寄せた。胡散臭い。高さの違う目が揃って同じ色を浮かべていた。
 なのにそれから彼にまとわりつくようになるまでたいした時間はかからなかったのは、彼がとても面倒見がよく優しい人物だったからだろう。前屈をすれば手の先は膝までしか届かず、用事がなければ昼近くまでベッドから出てこない完全夜型人間、と、日本人の抱くであろう中国人のステレオタイプをことごとくうちくだいてくれる彼ではあったけれど、おそらく彼は非常に優秀な学生かなにかで、日本に何かをしに来ていたはずなのだった。でもそれが何かは幼い私にはよくわからなかった。そもそも彼が何歳だったのかも定かではなかったのだ。
「4000歳ある」
 尋ねればこんな調子なので、結局最後まで彼がなぜ日本にいたのかは謎のままだった。何年か経って、ふとした機会に菊ちゃんにも尋ねてみたが、彼もまた首を傾げるのだった。
 私は中華料理を自分で作っては食べない。というよりも、自分で中華料理を作ったことがないし、作ろうと思ったこともない。彼が軽々と中華鍋を振ってふるまってくれた炒飯や麻婆豆腐に、自分がどうやったって敵うはずがないと本能的に知っているからだろう。




***




 が彼のことを思い出すのは決まって月のきれいな夜だった。
 その日、は課題を片付けるため閉館時間まで図書館にこもり、暗闇を足早に駆けて帰路についた。モスクワは日本と比べればあまり治安がいいとは言えないので、本当は明るいうちに帰るべきなのはわかっているのだが、夢中になると時間を忘れてしまう性質なので毎回後悔する羽目になる。
 鉄格子の門を閉めると、ようやく上がった息を整えるだけの余裕も出てくる。雪がやんでから誰も歩いていないのか、エントランスへ続く道は滑らかな雪で一面に覆われていた。きゅっきゅっ、とまっさらな雪を踏み固めながら歩く途中、ふと頭をあげたら月がとてもきれいだった。それで急に彼のことを思い出したのだった。




***




「かっわいくねーある」
 『か』と『わ』の間に5秒くらい力をためて、王さんは言った。私はむすっとしながらソファの上で膝を抱え、見たくもないテレビの画面を見ていた。私が彼の顔をいつまでたっても見ようとしないものだから、王さんはソファの背もたれに肘をついて大きくため息をついた。
「ちょっと前までにーに、にーに、って我の後ろをついてまわってたのに。薄情ある」
 彼は、明日には帰国してしまう。部屋の真ん中でスーツケースが大口を開けて以来、私は王さんと話すのをやめていた。寂しかったのなら何か別の行動もできたはずだ。でも幼心に、王さんがこの国を去っていくのは必然で、自分の力ではどうしようもないことがわかっていたのだと思う。こういう妙なところで冷静な一面を、彼はかわいくないと評したのだろう。素直じゃない、と言い換えることもできる。
、こっち来るある」
 王さんは私の手をとり、庭まで引っ張っていった。彼がにこやかに指差す先にはぼんやりと浮かび上がる月があった。
「あれ見るある」
「月?」
「そう、月。きれいある。我たち、世界中どこにいても同じ月見れるあるよ」
 こちらへ向けて微笑みかける彼の顔はひたすらに穏やかで、別れをひかえているとはとても思えなかった。この人は私や菊ちゃんと離れても辛くないのだろうか。そう思うと途方もなく悲しくなり、素直に頷くことなどできるはずもなかった。
 彼はもう一度月を指差しながら言った。
「あれ、何に見えるあるか?」
「うさぎが餅つきしてるところ」
「我の国では、あれは薬を混ぜてるところあるよ」
「…違うよ、餅つきだよ」
「同じものを見ても、同じことを考えるとは限らないある」
 そこで笑った彼の顔は、どこか寂しそうに見えた。彼は私の頭に手を置いた。
、まだ小さいある。小さいこと、いいことあるよ。大きくなる前にいろんなもの見るよろし」
 す、と膝を折り、彼の優しそうな漆黒の瞳が目の前にくる。
「桃花潭水深千尺、不及汪倫送我情」
「…なに?」
「とても素敵な詩ある」
 王さんの目の端が小さく光っていたような気がして、思わず手を伸ばした。けれど頬に触れるより早く、王さんはすっくと立ち上がって家の中に引き返してしまった。
 成長した私は今、彼が最後に中国語で詠った詩がどんな意味であったかを知っている。でも王さんに関するすべてのことはずっと謎のままだ。




***




 気づくと、目の前にイヴァンの顔があった。肺がひきつったが、なんてことはない、上からひょいと覗き込んでいるのだった。イヴァンはよりかなり身長があるので、こういう芸当ができる。
「首、痛くないの?」
「…少し」
「口、雪入るよ」
 そこではじめて自分が口を開いていたこと、そして雪が宙を舞いだしていたことに気づいて唇を引き結んだ。
 イヴァンが上半身をひいたので、も首を元に戻す。言われた通り、ずっと上を見ていたせいでたしかに首が痛かった。何を見てたの、とイヴァンがあまりにも不思議そうにきくので、なんとなく気恥ずかしくなってしまう。
 月を、とぼそりと言うと、イヴァンも空を見上げた。前髪を滑る粉雪に小さく目を細める。
 そして首を傾げながら、「なんで?」と聞くのだった。誰しもが予想できる反応だ。三文小説でもきっとこうなる。でも賞をとるような小説の中ではこうはならない。そういった類の対応だ。ある意味、現実はなによりも陳腐だといえるかもしれない。
 はもう一度顔をあげて、月を眺めた。満月でもなければ半月でもない、中途半端な月。そういえば、昔彼と見た月はどんな月だっただろうか。うさぎのことが話題に上ったのだから、少なくとも円形に近い形ではあったはずだ。それでも満月だったという確信もない。
「あまりにきれいだったので、つい」
 何秒かの空白を挟んだ挙句、は他愛もない返事を選んだ。ふうん。イヴァンも返したが、こちらも同じように他愛もないものなのだった。
 そこでふいに何の前触れもなくくしゃみが弾け、は初めて彼の恰好が部屋着のままなことに気づいた。この寒波の中、マフラーも手袋もコートもない。自分でも驚くぐらいは動揺して、思わず彼の背中を押した。
「なんでそんな恰好してるんですか!」
 空恐ろしい気持ちになりながら玄関の扉を閉めると、は大急ぎでイヴァンの肩に積もった雪を払った。髪にも絡みついているのが見えたが、そちらはイヴァンが自分で頭を振って落とした。
「呼びに行かなきゃと思ったんだよ」
 居間まで引っ張っていく最中、彼がぽつりとつぶやいたのが聞こえた。
「どうしてですか」
「なんでだろうね」
 何を言っているのか、というのが素直な感想だった。それでも返事に窮して、戸惑いと驚きの混ざった視線を向けると、彼も首をかしげているのだった。無意味な謎かけをしているというよりも、本気で不思議がっているように見える。








 なぜイヴァンに彼のことを話さなかったのか、と考える。言えば、おそらくもう少しくらいは実のある会話ができただろう。わかっていたのに、はそうしなかった。思えば、彼との最後の会話にまつわる思い出は誰にも話したことがない。菊にすらだ。でもそれが理由ではないのもわかっていた。

 同じものを見ても同じことを考えるとは限らない。

 には恐れがあった。