せっかくだしも来たら、というイヴァンの誘いを断る理由などみつかるはずもなく、鞄とパン袋をアパートの玄関に放るとはザポロージェツの後部座席に乗り込んでいた。
「トーリスがなんでそんなにロシア語うまいのか、ずっと疑問だったの。子供のころからロシアにいたからだったのね」
 もっとはやく教えてくれていれば、自分の語学力と比較して絶望することもなかったのに、と不平を零すと、イヴァンは面白そうに笑い声をこぼした。一方トーリスは一言、ごめんね、と呟いただけだ。どうしたのだろう、と視線を送るが、助手席に座った彼の表情は窺い知れない。バックミラーには額しか映っていない。
「みんな、っていうことは、他にもいるんですか?」
「うん、いるよ。いっぱいいたけど、今日来るのは二人かな。エストニア人とラトビア人」
「あ、バルト三国勢ぞろいですね」
「ほんとだね」
 みんないい子たちだよ、というイヴァンの声は優しさに満ちている。どうしてかトーリスはずっと押し黙ったままだ。




 イヴァンの家は、家というよりも屋敷といった方が正しかった。大きな鋼鉄製の門に、ぐるりと張り巡らされた塀。中には木も植えられていて、立派な石像もあった。想像以上のたたずまいには茫然とした。その様子をイヴァンはバックミラー越しに楽しんで見ているようだった。
「まるで、貴族の家みたいですね」
 そうなのかな、とイヴァンの返事はあいまいだ。革命後、ロシアから貴族は消えたのではなかったのか、ととっさに思ったが、歴史に明るいわけではないので黙っていた。
 この屋敷のお手伝いだという初老の女性、ニーナに導かれて広間にいくと、すでに件の二人は彼らの帰りを待っていた。端正な顔立ちに眼鏡が良く似合うエドァルドと、西洋人にしては小さく、容貌もまた幼いライヴィス。紅茶の入ったカップを置いて立ち上がった二人はの姿をみとめて動揺したようだった。それでもの存在は以前から知っていたらしいと言葉の端々から感じられた。ということは、彼らはトーリスと(もしかしたらフェリクスと)頻繁に会う仲だということになる。
お腹すいちゃった、というイヴァンの声が合図だったかのように、ニーナが前菜、ロシアでいうザクースカをワゴンに乗せて運び込んできた。オリヴィエサラダ、キャベツの酢漬け、きのこの酢漬け、スモークサーモン、トマトとチーズの盛り合わせ。それにウォトカが当然のようにストレートでグラスに注がれる。次々とテーブルを飾る色とりどりの皿に目を輝かせていたも、このときばかりは背中に嫌な汗を感じた。ビールならまだしも、この胃を焼くウォトカという酒は彼女にとって殺人兵器にも等しかった。彼女の酒の弱さを知っているトーリスだけは心配そうな視線を向けたが、断れるような雰囲気でもない。
「じゃあ、乾杯しようか。との出会いに」
 イヴァンがにこやかに杯を掲げる。
「乾杯」
 それぞれがぐいと一気に飲み干す。食道を火がなぞったように熱くなる。空いたグラスに、すかさずトーリスがミネラルウォーターを注ぐ。喉を冷やしながら周りを見渡すと、驚いたことに一番幼そうな外見のライヴィスがすでに二杯目に口をつけたところだった。
「うわばみなんです」
 ライヴィスははにかんで言った。愛らしい笑顔だが、右手には40度のストレートウォッカがしっかり握られているので素直にときめけない。




 その後、まるでロシア文学の饗宴をなぞったような食事がふるまわれ、は始終胸をふくらませていた。紙の上での出来事と現実の間には大きな隔たりがあるものだと思っていたが、やはり小説は現実から作られたものなのだと実感させられる。
 はじめこそ各方面からの質問が飛んできて、は食事を口に運ぶ暇もなくひっきりなしに喋り続けていたが、時間が経つにつれ、会話も本来この会にあるべき姿に戻ったようで、全員がたわいもない話に花を咲かせるようになっていった。ニーナが腕をふるって作ったという料理はどれも文句なしにおいしかった。
 最後にケーキと紅茶が出てくる頃にはすでには満腹で、しかも酔いもかなりまわって視界に薄膜がかかったようになっていた。手洗いにたつふりをして、廊下の扉からこっそりと庭へと抜け出したのは、火照った体を冷やすためだ。肌寒いが、上気した頬にはちょうど良く気持ちいい。ガーデンチェアがすぐそばにあるのをみつけ、マリエは身体を沈めた。

 庭はだいぶ人の手を離れているようだった。雑草は抜かれていないし、花も好き勝手伸びたい方向へ伸びっぱなしになっている。食事での断片的な話をつなぎ合わせると、今のところこの屋敷に住んでいるのはイヴァンだけで、あとはニーナが通いでやってきているだけということらしかった。手入れが行き届いていない、というよりも、庭を手入れする必要性がないし、そもそも興味がない、といった印象を受けた。
 庭だけではない、この屋敷そのものが、世の中の全てに取り残されているようなのだった。調度品も雰囲気も何もかもが時代遅れなのだ。ついていくことを諦めたような、むしろ忘れて欲しいような。
 草木を風が揺らす様をぼんやりと眺めていると、ふいに目の前にグラスが突き出された。
 跳ねた心臓にぎょっとしながら振り返ると、イヴァンがいつのまにか背後に立っていた。
「す、すみません、ちょっと外の空気が吸いたくなって」
「いいよ、そんなの」
 なみなみと液体で満ちたグラスは、ミネラルウォーターであるらしかった。は素直に受け取って一気に乾した。イヴァンは隣りのガーデンチェアに腰掛けてその様子を眺めている。
 最初の印象、そしてその後の3人との会話を見ていて感じたのは、彼が得体の知れない存在だということ、その一点につきた。エドァルドとライヴィスは、話を初めてすぐに気さくで優しい人種だと判明したが、イヴァンだけは別だった。話せば話すほど、水煙の中に迷い込んだ気分にさせられる。時折ふとした瞬間に感じられる、イヴァンに対する他の三人の恐怖のような感情はいったいなんなのか。
「トーリスたちの家に居候してるんだよね」
 唐突に始まった話も、まるで突拍子のないものだった。
「あ、はい、そうです」
「それって大丈夫なの?」
「大丈夫といったら大丈夫ですけど…大丈夫じゃないといったら大丈夫じゃないですね…プライバシーも何もあったもんじゃないですし、なにより毎晩硬いソファで寝ているせいで体がガチガチになりますし…」
「ふぅん」
 イヴァンはなにやら考えているようだった。視線の先には風でざわめく柏がある。
「よかったら、ぼくんちに住まない?」
「へ?」
 思いもかけない言葉に、素っ頓狂な声が出る。
「昔はね、トーリスたちもそんな感じでここに住んでたんだよ。いろんな国の人たちが住んでたんだ。楽しかったなぁ。でも今はこの通り、ぼくの一人暮らし。部屋はいっぱい余ってるんだよ」
「でも、」
「家賃はいらないよ。見てのとおりこの家は古いから、冬は冷えるし、電気を引いていない部屋もあるしね。ニーナの来ない日に家事をやってもらえれば、嬉しいけど」
 イヴァンは終始穏やかな口調で話をした。なのに、このつかみ所のなさはなんなのか。
 全身は、ひっきりなしに警鐘を鳴らしていた。トーリスたちの態度、過去、そしてイヴァンの底なしの笑顔。なのにの口をついてでたのは肯定の言葉で、ことさらイヴァンは満足そうに微笑むのだった。


 興味に姿かたちがあるとしたら、そのときそれは黒い羽を生やしたものであったに違いない、とは確信している。