「何度も言わせないで」
 はファイルを机の上に音を立てて放ると、人を小馬鹿にしたように(むしろつとめてそう見えるように)手をひらひらとふった。キク・ホンダはたじろいで、ファイルととを交互に見ていたが、彼女の頑固な様子が変わらないのを悟ると諦めてため息を吐いた。
「わかりました。本当に技術部の独断で選んでしまって構わないのですね」
「その台詞、先週も言わなかった?私が選んだ素体が悪かったからやれ条件付けがうまくいかないだの、やれ人工皮膚の定着が悪いだの言われるの、目に見えてるのよ。アントーニョと同じ轍を踏むのは嫌だからね。あなたたちの選ぶ都合のいい体を使ってよ」
 キクは机の上に散らばった書類をかき集めると、それでも礼儀正しく一礼してから部屋を出て行った。ここは執務室でなければ会議室でもない。ただの休憩室だ。まったく、日本人という奴は。
 はいらいらとエスプレッソを飲み干した。






 ベッドに横たわる義体と対面した時、真っ先に驚いてしまったのはそれが少年だったからだ。フランシス、アントーニョ、ギルベルト、すべての同僚の義体の前例から同性があてがわれると思っていたのだ。もっとも、ギルベルトの場合は事情が特別だが。
 シーツからは血色のいい桃色の頬と絹糸のような金髪がのぞいている。顔だけ見ると本当にただの人間のようだ。
 はパイプ椅子に腰かけると、枕元のネームプレートを確認した。
 アルフレッド。
 彼女の銃の名前だ。






 歓声を上げながら射撃場を走り回るアルフレッドを眺めながら、はその場にずるずると座り込んだ。一杯のワインがあれば飲み干したい気分だった。
 ー!と大声で無邪気に呼んでくるアルフレッドを頭からしめだすように膝の間に頭を埋める。途端に隣で乾いた笑いを聞いてさらに頭を抱えた。
「子育てに疲れたティーンの母親って顔してるよ」
「ティーンなんてとっくに終わったよ」
「だからたとえ話さ」
 そう言ってにこりとした男、胡散臭さと軽々しさをそのまま形にしたようなフランス人で、こいつ絶対ゲイ、と適当に決めつけていたら実のところバイだった。その程度の認識での付き合いしかない同僚だ。人間として大切な何かを欠いているとしか思えない、と言えば、俺に何か足りないとしたらそれは君だよマドモワゼル、と真顔で答えたりなどする。そのくせ全然本気じゃないのだから、思わず、そんなガキも落とせないような台詞が常套句なの?と次の句を継いでしまう。すると、今のそんなになよっちかった?とうってかわって焦った顔でつめよってくるのだから、非常に厄介だ。無言で脛を打ってやればそれきりそんな話題があったことも忘れた。
「今、が考えたことをあててやろうか」
 男は平然とした口ぶりで続ける。
「『こんなにも罪悪感がうずくとは思わなかった』」
「言ってなさい」
「もっと冷静に対処できると思ってたんだろ?『氷の魔女』だっけ?きいた話だとセルビアじゃ・・・」
「それ以上くだらない長口舌が続くんなら私は帰るよ。ただでさえ今月は残業続きでうんざりしてるんだ」
「残業っていっても、かわいい王子様との楽しいひと時じゃないの。きいたよ。先週の週末はシチリアまで行ってたんだって?ずいぶんな可愛がりようだ」
「あなたの耳はいったいどこについてるの?」
「自分でも把握しきれてないんだよね、これが」
 そう言って笑った。やれやれだ。とてつもなく現実感がない。男は軍用ジャケットからタバコを出し、一本咥えると、の方にも箱を向けた。
「タバコは吸わない。ワインの味がわからなくなるから」
 男はタバコの箱をジャケットに戻し、代わりにライターを出す。軽やかな音とともに火をともし、白い煙を吐き出す。その段になって初めて、そういえば彼もまた、無類のワイン好きではなかったかという記憶に思い至った。
 視線だけで見上げた先、右斜め上の男の横顔は、何かの彫刻のようだった。ここではない遠くを見つめている。
「先人として何かアドバイスは?」
 男は顎の無精ひげをなでながらやや思案顔だった。考え事をしているときの彼は普段より幼く見える。
「すぐ慣れる」






 、と足もとに纏わりつくアルフレッドは、肩にかけたバイオリンケースをものともしない。むしろこちらの方が毛躓いてしまいそうだ。
 条件付けというのは担当官の都合のいいマッキナを作るための技術ではなかったのか。の命令に忠実なのは戦闘においてだけで、プライベートでは言うことを聞いてくれたためしがない。技術部の腕もどこまで信用できたものだかわかったもんじゃない、と角を曲がろうとしたところでぐいと強い力で後ろに引っ張られた。みれば、頬をふくらませたアルフレッドが抗議のまなざしで見上げていた。指の先には外資系のハンバーガーショップがある。
 はうんざりとため息をついた。
「飽きた」
「えー!ビッグマックとシェイク、最高じゃないか!」
「いくら最高でも出かけるたびに食べてたんじゃさすがに飽きるよ」
「おれは毎日食べてもいいくらいなんだぞ!」
 ピッツェリアにうらめしく視線を送りながらも、根負けしてマクドナルドの扉をくぐることになる。いつものことだった。






「アメリカ人一家、観光で訪れていたローマでパダーニャの爆弾テロにあい、両親は即死。一人息子は体を半分飛ばされた状態で病院に運ばれるも、治療の甲斐なく死亡―」
 なんやそれ、とアントーニョに指摘され、は新聞の切り抜きを指先でつまんで室内灯にすかした。別に中に真実が隠れているわけでもない。すぐにアントーニョの間の抜けた視線にたどり着いた。
「あー、そういやあったなぁ、そんな事件。でもなんでがそんな記事もってるん?」
「はじめから半分ない体、うるさい家族もなし、その上パダーニャのあわれな被害者とくれば、公社にとってこれ程都合のいい素体はないだろうね」
 油断していた、と思う。以前の自分であればなんのことはないと受け流せただろうが。
 ぺらぺらとした切り抜きをファイルの元あったところに戻すと、特にあてもなくページを捲った。目に入るほとんどは何を言いたいのかさっぱりわからない数式とグラフと専門用語の海なのだが、時折無造作に写真が貼り付けられている。
 いち観光客の素性をここまで調べ上げる公社の徹底っぷりは感嘆に値する。
 アントーニョは視線を横にやった。つられる形で見れば、メンテナンスのため麻酔にかけられたアルフレッドがベッドに横たわっている。
「ロヴィは?」
「フェレーロ少佐んとこで特別訓練中。あいつ腕っぷしは強いくせに銃の腕だけはいつまでたっても上達せーへん」
「暴力的な遺伝子に欠けるのよ」
「笑えんわ」
 アントーニョはげんなりとした顔を作る。ロヴィーノのわりをくうのはいつも彼で、これではどちらが義体かわかったものじゃない、というのが同僚の間でのお決まりのジョークだった。任務はちゃんと遂行できているのだが、いまいちスマートさに欠けるのだ。
「頭ふっ飛ばされる前に条件付けを書きかえたら?」
「それはあかん」
「手遅れになるよ?」
「それでもや」
 じっとみかえしてくる瞳はくもりない。






 目が覚めた時、肩に手が置かれていることに気づいたのは、少し時間がたってからだった。見上げれば、背後に男が無遠慮に佇んでいる。なんとなく雹の粒を連想させた。
「もしかしてぼく、監視されてたのかな?」
 手を振り払い、眉間をもんでいると、しまりのない声で彼は言った。
「あ、でも居眠りしてたら意味ないよねぇ」
 あくまでおっとりと続ける男に、死ね、と吐息に埋没するくらいのかすかな音量で呟いて立ち上がると、彼は何がおかしいのかくすくすと声をもらして笑った。あまりに穏やかに笑うものだからいっそ胡散臭い。
 彼はに分厚いファイルを手渡した張本人だった。資料室で調べ物をしていたら気づいたら背後に立っていて、薄っぺらな笑みとともにファイルを目の前に突き出したのだった。
(君が探しているのは、これでしょう?)
 読み終わった今、彼がすべての確信のもとファイルをよこしたのだと理解している。一片も混じりけのない表情が語っていた。愉快だ、と。
 背けた視線の先、ガラス越しに明かりを落とした手術室がぼんやり浮かんでいて、ベッドにはアルが横たわっている。体中あちこちに管が繋がれた彼はしかしまっとうな人間の形をしていた。連日の業務で蓄積された疲れがの意識を奪うまで、彼の人工皮膚はすべて剥がされ、無機質なメタルが露出していた。が、そんな気配は微塵もうかがわせない。
 アルフレッドの腕。かつては野球のバットを握り、ボールを追ってグラウンドを駆けまわった。それが今や、彼の腕はバレットM82も握れば、ドラグノフのひき金もひく。空薬莢の転がる路地を抜け、ビルとビルを一足で飛び回る。
 なぜそんなことを考えたのか、まるでわからなかった。古くなったペンキが剥がれ落ちていくもろさに似ている。何もつかまない両手はだらりと横にたれ、冷え切っていた。輝きを失う金色の髪、そればかり見つめた。次第に遠近感が狂った。
 だから背後で彼が口を開いた時、正直安心していたのだ。
「夕飯、まだだよね?よかったら一緒にどう?この前いいトラットリアを見つけたんだ」






 ソ連から亡命してきた高名な物理学者を父に持つという彼は、自らと自らの父の輝かしい経歴について語った。
「よく暗殺されずにすみましたね」
「びっくりだよねぇ」
 彼はフォークとナイフで貝殻を脇に避けながらしみじみと言った。
「父を殺さなかったことは、あの国の大きな損失だったと思うよ。もしかしたら公社はモスクワにあったかも」
 それでもまだその時、にはリゾットをスプーンですくいながら笑顔を捨てずにいられるだけの余裕があったのだ。でもそれだけだった。目を細めても視界を遮るのはどこかでみた金色ばかりで、喉を通るのはなまあたたかい塊でしかない。
 結局、彼はドルチェまで堪能したが、はコーヒーすらも受けつけなかった。
 店を後にして、石畳の上に足を乗せたとき、初めて感じたのが寒さだった。夜のふちが足をとらえ、二度と光のもとへは返してくれないのだという意識が強く頭をついた。絶望といってさしつかえなかった。
 いつのまにか支払いをすませた男が横に並んでいて、気づけばふたつ返事でタクシーに乗り込んでいた。






 クバンスカヤとアララト、どっちがいい、とイヴァンがきくので、どちらでも、とはすげなく答えた。彼の部屋はこざっぱりと片付いていて、悪く言えば生活感がなかった。もとよりいい顔をするつもりもないので率直に告げれば、彼はにこりと笑う。手にはショットグラスがふたつあった。ワインはないのかと問えばあんなの酒ではないと返される。
 小さなテーブルをはさみ、ナッツやチーズをつまみにショットグラスを傾ければたちまち酔いは回ったが、逆に意識は研ぎ澄まされていく。気分が右下がりの時に酒は飲まないって決めてたんだけど、とぼそりと言うと、なんだ、やけ酒だったの、と男はのんびりした口調で茶化すように言った。白々しい、と鼻をならせば、彼は空になったのグラスになみなみとウォトカをついだ。
「ぼくたちロシア人の血っていうのはね、きっとウォトカでできているんだ」
 グラスを間接照明の光にかざし、うっとりと言う。
「君の血は?」
「私の血?」
 もちろんワインだ、と言いかけて、その軽々しさに気づいて口をつぐんだ。彼女の血にイタリアの血は一滴も混じってはいない。彼女は生涯に3つのパスポートを持ったことがあった。1つめは多分一番大事なもので、でもどうしたって捨てざるをえなかった。でもそれが答えに窮した理由ではなかった。出自ではないのだ。自分の血がまだ赤いかどうかどうしたって確信が持てなかった。一方で彼の血が透明であることには何の疑問も抱かない。
「罪悪感を感じることは?」
「罪悪感?」
自らのグラスにも酒を満たしながら、彼は首を傾げる。「なんの?」
 凍てつく大地にすべてを置いてきたのだ。






 彼は瓶の底にウォトカがあと1センチも残っていないことを確かめると、いる?との方に瓶を差し出した。膝の上で空になったショットグラスをもてあそんでいたはうなだれたまま首を振った。頬に落ちた髪の隙間からのぞく肌はみるからに紅潮している。
 彼は瓶に直接口をつけ、一気にあおると、空になった瓶を静かにテーブルの上に置いた。
「ロシアではね、冬の間はウォトカを冷蔵庫にも冷凍庫にも入れないんだ。なぜだかわかる?」
 はふたたび首をふる。イヴァンはゆっくり立ち上がった。
「窓の外に置いておくんだ。それだけで瓶に霜が降りるくらいまで冷える。だけどウォトカは凍らない」
 そしてそうすることが当然といったようにうなだれているの顎をとった。 *
「どうしてこう、イタリアのビールってのは気の抜けた味がするのかね」
 ならば飲まなければいいのだが、そういうわけにもいかないらしい。不満そうにグラスを傾けていたギルベルトは、そういえば、と突然話題を変えた。
「きいたか、あの噂」
「なんだよ」
「近々、かなり大規模な作戦が行われるって奴」
「ああ・・・あいつか、アフリカとか中東の奴らの手を借りてテロ起こしてるグループ。その一掃作戦が始まるんだろ」
「なんだ、知ってんのか」
「お兄さんの情報網をなめたらいけないよ」
「のわりにはやけに落ち着いてるじゃねえか」
「焦ったところでどうするよ?俺たちは外国人部隊。公社に急所掴まれて身動きできない。作戦となれば問答無用で特攻役。いつもそうだったろ?」
 ワイングラスを傾け、チーズをくちに運ぶだけの沈黙を挟み、彼はにこりと笑う。
「そりゃ個人的にパダーニャに恨みを持っちゃいるけどね。でもアーサーが一秒でも長く生きてくれたらいいとも思う。敵さんに痛手は負わせつつ、あいつが死なないよう最大限に悪知恵はしぼらせてもらう。それだけさ。お前だってそうだろ?」
「今回に限っては、その腐ったネズミみたいな悪知恵も使わなくてすみそうだぜ、って言いたいんだぜ、俺は」
「・・・どういうことだ?」
 彼は指でフランシスにこっちへ寄れと合図した。そういう時はもっと色っぽくやるもんよ、と言うフランシスの足を蹴飛ばし、彼は耳元で早口にまくしたてた。
 途端にフランシスは笑みを消し、顎に手をあてる。
は了承済みなのか?」
「公社が事前に了承を取ってくれたことがあったか?」
「もっともだ」
 ちょうど通りかかったウェイターを呼びとめ、新たにワインを注文すると、年若いウェイターはすぐさまグラスを持ってやって来た。サービスです、と言ってグリッシーニをつぎ足される。おや、と見れば、情熱的な視線がじっと見下ろしていた。ボヘミアの血が混じった顔をしていて、率直に言ってフランシスの好みだった。向いのテーブルからギルベルトがものすごい形相で睨みつけてくるのがわかった。彼は筋金入りのストレートで、かといって同性愛に理解がないわけではないのだが、フランシスの性癖だけは毛嫌いしていて、しかも公言してはばからない。
 メルシ、と手を振って、惜しい獲物を追い払う。
「大丈夫、今はそんな気分じゃないよ、ギル」
 脳裏に浮かんだのは一人の同僚の女の顔だった。氷の魔女、青い血の魔女。軍警察では散々な異名をとどろかせていたようだが、義体の担当官になってから彼女の周りに張り巡らされていたシールドはすっかり影をひそめてしまった。女は子供を持つと変わると言うが、それにしたって呆気なさすぎる。しかもアルフレッドは実の子供でも何でもない。






 休憩室に入って彼が奥の椅子に座っているのを見つけた時、真っ先に感じたのが違和感だった。答えは少しして、コーヒー豆をミルにかけたところで見つかった。自分をはじめ、この部屋を訪れるものの目的は決まってエスプレッソマシーンだ。マグカップ方手に談笑、という光景はこの部屋ではあまり見られない。気晴らしに話をしたければどこででもするし、ゆっくり腰を落ち着けるくらいならこんな気の滅入る職場は抜け出してバーにでも行く。そんな奴らばかりだった。何が言いたいかと言うと、彼、イヴァン・ブラギンスキは生粋のロシア人で、その血を誇りとする彼はエスプレッソを飲まない。
 イヴァンは珍しくぼんやりとしていて、フランシスが入って来てもぴくりとも反応しなかった。たんに無視しようとしてただけなのでは、という可能性に行きあたる頃には時すでに遅し。病気のような習慣で笑顔を浮かべながら、向いの椅子をひいていた。
 よう、調子どう。普通だよ。良くもないけど悪くもない。フランシスくんは。俺もそんな感じかな。アーサーの腕の調子がよくなくてね。それってぼくに対する嫌味かなぁ。まさか。技術部長さんにフィードバックを返してるだけさ。ふうん。
 それ以上話す話題もない。他愛のない会話だ。イヴァンはやんわりと馬鹿を見る目をしているし、フランシスは流れに沿って声を発したに過ぎない。ぐいとエスプレッソをあおり、彼は席を立った。



 フランシスが技術部長と女担当官を見かけたのはそれから5日後のことだった。即座に感じたのもまた、純度100%の違和感だった。街灯のつきはじめる黄昏時、にぎやかな往来の中で、危うく見落とすところだった、と彼は思う。二人についてのよからぬ噂はすでに彼の耳に入るところとなっていた。
 ロシアがかつてソ連だったころ、彼の両親は祖国を逃げ出した。彼が生まれたのは亡命先のフランスでのことだった。だから彼は生涯に一度も故郷の土を踏んだことがない。なのに妙に郷愁の念が強く、事あるごとに自分の血について語りたがった。帰れないからこそ愛が募るのかもしれない。彼ほど頭脳明晰な男なら自覚もしているのだろう。
「アメリカ人の体にメスをいれることは、ぼくにとって喜びでしかない」
 そう言って笑う彼は、どこか白々しくてさみしい印象をうける。キクのことを馬鹿にすると重ねてしまうのも仕方のないことだった。



 フランシスはその場を離れた。その時彼は、自分の浮かべている表情が筆舌に尽くしがたいことを自覚していた。かといって別に誰に伝えるつもりもないので特に問題はなかった。






 キーボードの上に手を置いたまま、しかし意識は別のところを流れる。すると形式だけのノックとともにひょっこりとウェーブのかかった金髪がのぞいた。
「ありゃ、まだ残ってたの」
「そういうフランシスだって」
「俺はただ報告書提出に来ただけだよ。ついさっきナポリから帰って来たのさ。それでアーサーを寮に送り届けてきたってわけ」
「それは、それは」
「仕事熱心だね。さすがかのワーカホリック、キク・ホンダの国の血が半分流れてるだけはあるってとこかな。でもあんまり遅くまでパソコンとにらめっこしてると美容に悪いよ」
「いたみいるね」
「いつ終わる?よかったら尊い労働のためにとっておきの一本をセラーからおろしてあげるよ」
 はすぐにパソコンの電源を落とした。名誉のために言うと、これは別に彼女がワインに目がなく、フランシスの舌に(悔しいが)一目置いていたからではない。目の前の書類から離れるのに、なんでもいいから口実が必要だったのだ。そしてそれをフランシスはわかっている。



 最近アルの調子がおかしいの、とが言うと、フランシスは肩をすくめた。
「知ってるよ。副作用だろ。どんな症状だ?」
「最近コーラを飲まなくなった。味がしない、って」
「まだ序の口だ。こんなのでへこんでたらきりがない」
 アーサーに健忘症が現れてきたことを、彼はに話していない。
「それに・・・」
「それに?」
「プライベートで私の言うことをきかないのは今にはじまったことじゃないけど、最近戦闘でも命令無視ばかりするの。やけに無鉄砲なことばかりするし、この前も深追いするなと言うのに無茶して被弾したし。失敗続きが応えているのかな、最近演習場から出たがらないし、寮でもあまり眠れないらしい。睡眠薬の量が増えたの」
 大きくため息をついたは、ひどく疲れているようだった。睡眠薬が必要なのは彼女も同じなのかもしれない。
「条件付けが甘いのかな。でもこれ以上投薬を増やすのだけは、嫌だわ」
 フランシスは無言でワイングラスを傾け、チーズをかじる。やっぱりこのワインにこれを合わせるのは正解だったな、とひとりごちるが、女はまったくきいていない。オイルサーディンあけてもいい?ときくと、は恨みがましそうな視線を向けた。
「珍しく人が相談してるのに、何よ、その態度は」
「珍しくお前が的を外してるから驚いてるのさ、
「・・・どういうこと?」
 フランシスはクラッカーの袋をあけながらため息を吐く。
「お前、兄弟いる?」
「妹がアメリカにいるわ」
「じゃあお前も一度は経験したことがあるはずだよ」
「・・・どういうこと?」
「かわいい嫉妬の話さ」
 バターを塗ったクラッカーにオイルサーディンをのせ、ばりばりと音を立ててかじる。ナプキンで手をふいたところで彼女が机を叩いた。見れば、憤懣やるかたないといった表情で睨みつけてきていた。
「・・・違う」
「なにが違うの?」
「なにもかもがよ、フランシス・ボヌフォワ」
「そんなにつっかかりなさんな。せっかく人がこたえてやってるのに」
「だったら、どうだのいうの」
「別に。プライベートをどう過ごすかなんて個人の自由だ」
 にっこりと正確無比の笑みを浮かべるとフランシスはワイングラスに赤色の液体を注いだ。彼のとっておきのサンテミリオン。赤く、光を通さない液体が揺れるのを眺めているうちに、ふと思い当ることがあった。
「無理な話かもしれないけど・・・自分を責めたらいけないよ」
 ワインで口を湿らせる。
「自分がやりたいことをやるんだ。そうしたら最悪、後悔は最小限になる」
「説得力ないね」
「なんで?」
「フランシスができてないから」
「ははは。わかってるなら話は早いよ。俺の二の轍は踏むな、ってことさ」
 ふいに、彼女がまだこの部屋に来てから一口もワインを飲んでいないことに気づいて、フランシスはグラスを彼女の目の前に差し出した。
「とっておきなんだから飲みなって」
「そういう気分じゃないの」
「口移しで飲まされたいの?」
「・・・飲みます」
 ワインを口に含んだ後、彼女の表情が変わったので、それだけで彼は満足だった。
(憎む相手と愛する相手が一緒でも、いいと思うよ。)
 彼女はまた、ガキでも落とせないと一笑にふすだろうか。






 自分はカウチで寝るから泊っていけばいい、というフランシスの提案を断り、は夜道を歩く。フランシスは決して深くまで踏み込まない。自分が踏み込まれたくないからだ。彼がタバコを吸い始めたいきさつを彼女が知ったのはつい最近のことだ。アーサーが一杯の紅茶に山ほどの砂糖とミルクをいれるようになってから、まるで自分の味覚を殺そうとするかのように摂取し始めた。それを教えてくれたのはギルベルトだった。
 彼はイヴァンが嫌いだった。だから彼に近づくを快く思っていない、と無遠慮に伝えられた時に一緒にきいたのだった。
 ドイツから国境を越えてやってきたバイルシュミット兄弟の悲劇をは知らない。兄のギルベルトが実の弟を義体化したその原因が、間接的にせよイヴァンにあること、そしてそれをギルベルトは許せないこと、その二点しか知らない。一度きいたら、きっぱりと拒絶されたからだった。
「他人の悲しみを聞いて何になる?同情なんていらないし、お前に同情したくもない。大体お前の性格からして抱え込んじまうだろ。それで自己犠牲とかやってみろ。俺たちは全然嬉しくないんだからな、くそっ」
 最後の方は視線が泳いでいた。それでは自分が泣き笑いの表情を作っていたことに気づいて両目を覆ったのだった。



 いくつかの角を曲がって、アパートの階段をのぼる。ドアベルを鳴らすと、かなりの時間を置いた後、イヴァンの顔がのぞいた。驚きと嫌悪がちょうど半々に混じり合った顔をしている。彼らしいな、と思いながら、は彼の襟をひいた。






 小さくノックすると、間髪おかずに扉が大きく開いた。階段を上ってくる音をブランケットの間からきいていたのだろう。寮の敷地に入るより前から、にはアルフレッドが起きているという確信があった。
 輝く金髪の間で頬が上気している。まったく眠くないのだろう。
「ちょっと散歩する?」
「いいのかい?寮長に見つかったら怒られるよ」
「そうしたら私のせいにすればいいんだよ」
 そうして屋上まで出ると、アルフレッドは嬉しそうにパジャマのまま跳ねまわった。声を出して歌ったりもする。なんの歌?ときけば、きいたこともない題名が返ってきた。あとで調べようと思いながら屋上のへりに腰を下ろす。
「星がきれいなんだぞ、!」
「そうだね。きっと明日も晴れるよ」
はおかしいんだぞ」
「なんで?」
「天気の話をするとき、はいっつも明日の話をするだろ?でもいま晴れてればそれで十分じゃないのかい?」
 アルおいで、と両手をのばすと、アルフレッドは嬉しそうに飛び込んでくる。普通の子供より重いが、慣れてしまえばこれが彼女にとって普通の重さだった。さらさらの金髪に顔を埋めると、消毒液にまじって不思議な匂いがした。小さい子のもつ、独特のにおい。
「今日は眠れそうにないんだぞ」
「寝ないとだめだよ。だって明日は、」
 大事な任務だ、といいかけて、彼女は口をつぐんだ。そして言いなおす。
「・・・早く起きないといけないでしょう」
「でもおれ、朝が嫌いなんだ。朝になるといろんなことを忘れてる気がする」
 は体をアルフレッドから離した。少年は言葉の内容に関わらず至って普通の顔をしていた。そして、大丈夫?と心配そうにきいてくる。、つらそうなんだぞ、と。
「大丈夫だよ、アルがいるから」
そうして再びひきよせると、彼は胸元で嬉しそうに笑った。