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はじめ、手の甲は扉をからすべりしただけだった。 目の高さまで持ち上げ、表と裏を何度見比べたところでそれはいつもの自分の手で、かすり傷一片だって混じらない。なのに冷え切って指先まで白く、あまつさえ震えてまでいた。 もう一度かたく凍った手を叩きつければ間抜けな音が鳴り、一拍おいて中から声が聞こえた。どうぞ。はドアノブに手をかける。 やあおかえり、とほほえむイヴァンは普段となんら変わりないように見えた。デスクから腰をあげる気配はまったくないが、それでもソファをすすめる表情は穏やかで、は今なら自然な笑顔が作れる気がした。彼の書斎に足を踏み入れるのも、帰宅後コートも脱がぬ間に内線で呼び出されるのも、どちらもはじめてのことであったとしても。 「単刀直入に言うよ。ぼくの知り合いにね、君の大学に縁のある人がいるんだ。今日たまたま会う用事があってね」 たまたま。は口の中でくり返す。 「それで、ちょっときいたんだけど、来月には寮が何部屋があくらしいんだ」 「・・・あく?」 「そう。家の事情で途中帰国しなきゃいけなくなった留学生がいるとかだったっけな。あんまりよく覚えていないんだけど」 それで、と彼は続ける。 「、そこに住むことになったから」 「…なんですって?」 思わず身を乗り出してイヴァンの顔を凝視するが、彼はまったく表情を崩さなかった。微笑んでいるようにも、同じことは言いたくないと口を引き結んでいるようにも見える。はたちまちをめまいを感じた。 「そんな…」 「あれぇ、不満?」 「不満というか…突然すぎて…」 彼はふふふと声を出して笑い、目の前でおもむろに手を組んだ。「違うでしょ、」 「きみは、ぼくの行動が理解できないんだ。そうでしょ?」 は唇をかんだ。イヴァンはなおも無邪気に笑う。 「正直ね、あんなもの見られたところで、痛くもかゆくもないんだよ。たかが日本人ひとりにみられたところでさ。わかる?」 答えなかったのは、なんて答えたらいいのかわからなかったからだ。しかしイヴァンはそれを肯定ととったのか、組んだばかりの手をはなしてひらひらと振った。話はそれだけだというサインだった。 は大きく息を吸って、それからゆっくりと吐き出した。体の芯がじわりと熱を帯びていくのが分かったが、手足はいまだ氷のように冷え切っている。もう戻ることはないのかもしれない。自分の境界線が失われていくのをありありと感じていた。現実、過去、悲しみ、怒り、恐れ。誰のものとも思えない。まるで渦のようだ。は思う。けれども。両手を強く握った。 「イヴァンさん」 なぁに。優しい声。さめきった声。感情の息絶えた声。 それでも、とは思う。それでも、自分のするべきことだけは見失っていない、はずだ。 「最後に一つ、お願があるんです」 |