物心つくころにはもう、俺はたくさんの子供たちと一緒にその屋敷で暮らしていた。身の回りの世話をしてくれる人から、最低限の読み書きを教えてくれる人、さらになにをしているのかわからない人まで、いろんな種類の大人たちでまわりは溢れていたけど、子供たちは常に愛に飢えた状態で、互いに身を寄せ合ってなんとか不幸を凌いでいる状態だった。なんの折だったか、ある大人が孤児院だとぽろりと零したことで、それではみんな孤児なのだろうと勝手に納得するようになっていた。実際には他の孤児院を知らないのでなんともいえないのだが。 子供のメンバーは時折変わった。ある時ひとり連れて来られて、次の日にはなんの前触れもなくひとりいなくなっていたりした。彼らがどこにいってどうなったのかはわからず、そのたびに脅えて泣いたけれど、どうすることもできなかった。屋敷が広く、窮屈な思いをしなかったのが唯一の幸運であったかもしれない。 ただその屋敷の子供たちの中で、3人だけ扱いの違う子供がいた。それがイヴァンさんとその姉妹たちだった。彼らは一日のうち数時間だけを俺たちと交じって遊び、残りの大部分は別室で隔離されて過ごしているようだった。彼ら3人の話を繋ぎ合わせると、どうも彼らはこの屋敷の持ち主の血筋のものたちであるふうなのだった。 「じゃあ、君たちにはパパやママがいるんだね」 「ママは死んだよ。ナターリアを産んでからすぐに」 「でも、パパはいるんだよね?」 「わからないの。会ったことがないから」 そんなわけで、俺たちは、半歩ひいていたきらいはあったにせよ、彼らと共に寂しさを分かち合う仲間となったわけだ。 日々は毎日、淡々と過ぎて行った。しかしある時期から急に目に見えて子供の数が減りだしていった。大人たちももう隠し立てする必要はないと思いだしたのか、遊んでいる最中にいきなり割り込んできて、泣きじゃくる子供を何人かひきずっていく、というような露骨な行動もやるようになった。子供たちに恐怖を与えるためにやっているというよりも、切羽詰まっていてそうせざるをないといった様子なのだ。そうして連れて行かれた子供の中には、イヴァンさんの姉妹たちも入っていた。 ワーニャ、ワーニャと泣き叫ぶ姉の悲痛な声に、妹に噛みつかれ、髪を引っこ抜かれ、股間をけり上げられた大人たちの悲鳴。 最後、残されたのはイヴァンさんの他に俺とエドァルド、ライヴィス、それにニカという女の子だけになってしまっていた。その時にはもう大人たちは明らかに余裕をなくしてピリピリしていて、俺たちは彼らに乱暴に扱われることよりも自分の行く末の方をはるかに恐ろしいと考えるようになっていた。 「行ってしまうの?」 残ることも怖いが、連れて行かれた先に安息がまっているとも思えない。ある日、4人で顔をつきあわせてぐずぐず泣いていると、いつのまにか戸口にたっていたイヴァンさんがぽつりと言った。 彼は不思議な子供だった。いつも顔はにこにこと笑っているのに、どこか正体の掴めない感じがした。俺たちの中で一番年長で、中身もだいぶ大人びていたけれど、それだけが理由ではなかったはずだ。 泣くのを中断して振り返った俺たちをじっと見て、行ってしまうの、と彼は繰り返した。 「行かないでよ。姉さんもナターシャも連れて行かれちゃった。君たちまでいなくなったらぼくはひとりになっちゃうよ」 なのにイヴァンさんの顔は凍りついてしまったように終始無表情だった。俺たちはどうしていいかわからなくて、さらに声をあげて泣きだしたのだった。 *** 「俺が話せるのはここまでだ」 机に視線をぬいつけたまま淡々と語っていたトーリスは、その言葉で初めてを見た。彼が口を開いて少ししてから気づいたのだが、彼の頬、というよりも服に隠されていない肌の表面すべてに、赤い傷跡が縦横無尽に走っている。まるで100匹の猫の大群に襲撃をうけたようなひっかき傷なのだ。彼もまた、あの屋敷の血をひくものの災難を被ったということか。フェリクスも居心地が悪そうにしながら黙って座っていた。 「というよりも、これ以上は何も知らないんだ。俺はそのあとリトアニアにつれていかれて、両親だという夫婦のもとに引き渡されたから」 「実の両親だったの?」 「本当に血が繋がっているかという意味ならわからない。でも今、彼らは俺の大切な家族だよ」 少し顔をしかめてから続ける。 「それから何年も時が流れて、ふとしたきっかけでモスクワに留学することになったんだ。あの屋敷のことはできる限り調べたよ。調べてる最中に偶然再開したエドァルドとライヴィスと一緒にね。でもあの屋敷で何が行われていたのか、まったくわからなかった。イヴァンさんがまだ屋敷に住んでいると知って訪ねて行ったけど、彼も何も言わなかった」 彼は手元のコップからひとくち水を飲んだ。 「ナターリアはイヴァンさんに会っていないらしい」 「…会っていない?実の妹なのに?」 「というよりも、会えないんだ。昨日はじめて知ったんだよ。彼女はイヴァンさんと会わないことを条件にボリショイバレエアカデミーへの留学を許可されたそうなんだ。約束を破ってイヴァンさんのところに行ったこともあったらしいけど、全部邪魔されてる」 「…誰に?」 「…それはしらない」 「なんなの?まるでイヴァンさんの力の及ぶところと及ばないところがあるような…」 「それも、わからない」 そこでふと、はフェリクスの方へ視線を移した。 「そういえば、フェリクスは?」 「ん?」 「フェリクスは、どうだったの?」 「俺も似たような感じ。トーリスよりずっと期間は短かったけど」 それからしばらくの間、沈黙が流れた。トーリスにもにも話すべきことが多すぎて、なにから手をつけていいかわからなかったのだ。 やがて、なんの合図もなかったが、それでもトーリスが口を開いた。 「最近、思うんだ。イヴァンさんは俺たちを許していないんじゃないかって」 「許す?」 「俺たちが出ていって、彼をひとりにしてしまったことで、彼は俺たちを恨んでいるんじゃないかっていうことだよ」 「でも…トーリスたちにはどうしようもできなかったんでしょう」 「そういう次元の問題じゃないんだ。俺たちはあのとき、”出ていかない”って言わなくちゃいけなかったんだ。嘘でもいいから、ずっと傍にいます、って」 「そんなの…」 馬鹿げてる、といいかけて、口をつぐんだ。ひどくひんやりとした感触だけがさえざえと喉に残った。 トーリスは一言、ごめん、と言った。 「言わなかったこと、本当に悪かったと思ってる。イヴァンさんに口止めされていたけれど…俺はを巻き込むべきじゃなかった」 とっさにフェリクスが口を開きかけたが、トーリスは眼だけで彼を制した。それだけのことで、にはもう、トーリスがたくさんのものを背にかばっているということが痛いほどにわかってしまった。 は息を吐きながら笑った。 「悪いのはわたしだって言ってくれてもいいのよ?」 「いや…どちらにしても、に拒否権はなかったと思うよ」 「イヴァンさんは、いったい何がしたかったの?」 「…わからない。最初は、俺たちへの復讐かと思ったけど」 復讐。 は口の中で繰り返す。感じたのは違和感だ。何かが抜け落ちているような。 胸元につかえる石を探り当てようとしたところで、ふいにトーリスの顔がさらに陰りを増した。なんだろう、と首を傾げれば、彼はさらにごめんと繰り返すのだった。 「もうひとつね、本当にもうひとつだけ、謝らないといけないことがあるんだ」 トーリスは泣きそうな顔をしている。フェリクスは顔をひきつらせての背後を見ている。 はおそるおそる振り返り、そして確信した。 間違いなく、今日が命日になると。 |