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この屋敷は古すぎて、そして広すぎて、電気をひいていない部屋がたくさんある。イヴァンとが使う部分は中心部のごくわずかの部屋に限られた。いつか老朽化して潰れちゃうかもね、なんてイヴァンは笑っていたが、最低限の管理は行っているようで、あわや腐った屋根の下敷き、という惨劇はおこらなそうだった。イヴァンの屋敷は、ただの建物としてそこに佇む。 そんなわけだから、居候の身分でそういった部屋に用事ができるはずもなく、がこれまで自室の前の廊下がどこに続いているのか、全然気にしていなかったのは、遠慮や礼儀以前の問題だった。 色褪せた絨毯の色を踏み、は初めてみる廊下の角を曲がっていた。物置にしているだけだから、と引っ越してきてすぐ説明を受けた場所だったが、その割には床に積もる埃は少ないように見える。足もとを懐中電灯で照らし、床の出っ張りに足をかけないようにしながら注意深く歩く。足音は窓の外で渦巻く豪雪が消してくれていた。 角を曲がってしばらく進むと、が想像していた以上の数の部屋とでくわした。ひとつひとつ、通りすがりにドアノブに手をかけるが、どれも固く閉ざされている。 やがてひとつだけ手ごたえのないドアにあたり、マリエはそっとレバーをおしながらドアを開いた。奥行きがあるのか、内部はとても広い。充満したほこり臭い空気が隙間からまいあがり、は口元を左手でおさえて室内に足を踏み入れた。 中は真っ暗闇だった。あちこち懐中電灯をあててみるが、なにやらいろいろなものが置かれているという以外のことはわからないのだった。木箱だの、革製の袋だのが一見無造作に、しかし確実に秩序をもって並べられている。木箱の中には外側に文字の書かれているものもあったが、埃と暗闇のせいで判別はできない。 そのひとつに手をかけようと一歩進んだところで、かつんとつま先に触れたものがあった。そしてそのままの勢いでころころと転がっていく。追いかけ、かがんでつまみ上げると、それは小指の大きさ程の金属の塊のようだった。手のひらにのせて、しげしげと眺める。金色に光るこれはまるで… ふいに後方で、じゃこっ、という金属同士の擦れあう音を聞いた。振り返ろうとして、それを阻むように背中に固いものが強く押しつけられる。は動きを止めていた。力を失った指から懐中電灯がこぼれおち、床で鈍い音を立てる。数秒遅れて手の平にのっていた金属も足もとをころころと転がる。 イヴァンは口を開かなかった。もただ体を震わせながらじっと立ち尽くしている。すぐ背後、吐息が触れそうなほど近く、寄り添うようにイヴァンが佇んでいて、なのに肩甲骨と肩甲骨の間を中心に、かたい感触が背中を冷やしていた。 「幸福な家庭は皆同じように似ているが、不幸な家庭はそれぞれにその不幸の様を異にしているものだ」 声はいつも通り穏やかと形容して差し支えないくらいだった。でも声の調子が彼の気分を反映しているとは限らないことを、ここ数カ月では学んでいた。 「誰だっけ、言ったの。ロシア人っていうのはきっと、不幸が好きな人種なんだよ。イタリア人が悲劇好きで、オペラばっかりさえずってたみたいにさ」 は眉をひそめた。 「好奇心は猫を殺すよ」 「…イヴァンさん」 「せっかく心変りしてたところだったのにね」 振り向こうとしてもできなかった。ぐい、と銃口で強く背中を押され、は息をのむ。イヴァンの足がしなって足もとの木箱の蓋を蹴飛ばした。 中身が露わになる。はしばらくの間、自分が何を見ているのか理解ができなかった。 「このへんの箱はマカロフか。じゃああっちはВампир…RPGかな。どこかにカラシニコフもあるはずだよ。君が好きな映画や小説によく出てくるやつ。実物を見るのは初めて?」 「これは、一体…」 「正直に言うとね、いろんなことがありすぎて、どこから話していいかわからないんだ。ぼくのずっと前の代から続いていることだしね。ぼく自身、把握しきれていないところもあるんじゃないのかな」 あくまで他人事のような口調なのだった。 視界にイヴァンは映らない。名前を呼ぶと、彼はいつもより冷たい声色で応えた。しかし言うべきことは見つからなかった。ただなぜか、彼の視線がこちらを向いてればいいと、場違いなことを考えていた。 最後に彼はの耳元に口を寄せ、 「Прощайте」 引鉄を引いた。 |