いくら待っても、トーリスは戻ってこなかった。とたんに心配と不安が波のように押し寄せてきたが、フェリクスの方はよりわずかに冷静で、トーリスは頭がいいから大丈夫だと言った。それにもしなにかあったならもう手遅れのはずだ、という。ナターリアはそういう女だ、と。

「トーリスが帰ってきたら、明日絶対に全部話すから」
 外はもうすっかり暗く沈んでいて、は危険と安全の境目になる時間ぎりぎりまでねばってから彼らのフラットをあとにした。珍しく真摯な視線の彼が送っていくと主張したが、は断った。少し一人になりたかったのだ。


 トーリスとフェリクスのフラットをでた後、はしばらく街の中をとりとめもなく歩き回った。とにかく今の状態でイヴァンの屋敷には戻りたくなかった。
 それでも他に行くあてもないので、すっかり足がくたびれたころようやく重い屋敷の扉を開いた。
 イヴァンは難しそうな本を開いていた。暖炉の前のソファ。いつもの彼の定位置で、紅茶のポットをサイドテーブルにおいて。
 彼は今日はもう夕飯をすませてしまったらしかった。連絡も入れずに遅れたことを謝ると、そんなこと、といって彼は笑った。
「食べてきたの?」
「いえ…」
「キッチンにの分がとってあるから、あっためて食べたら」
 とても食事がのどを通る気分ではなかったが、はなんとかパンを一つ、胃の中に押し込んだ。
 そして食事がすむとすぐにマフラーをイヴァンに返した。イヴァンはの顔とマフラーを見比べて、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?あげるって言ったのに」
「新しいものを買ったので」
 嘘ではなかった。事実、さっき街を歩いている間に、最初に入った店で、最初に目についたものを買っていた。ごわごわとした、あたたかいけれど肌触りの悪い、ターコイズブルーのマフラー。
「気に入らなかった?」
「いえ…」
 がそれだけ言うと、しばらく間を置いてから、そう、と笑顔でイヴァンは答えた。彼が黄色のマフラーを受け取り、傍らに置く動作の間、は口をぎゅっと引き結んでいた。彼の笑みにはどこか不透明な色が混じっていた。
「トーリスは元気?」
 唐突な問いかけだった。声だけなら底なしに機嫌がよくきこえるが、明らかに雰囲気がいつもと違う。それでも彼はなおも笑いながら続けた。
「ぼく、ずーっと会ってないから、会いたくなってきちゃった。今度遊びに来てって伝えておいてよ」
 伝えます、と、囁くのと同じ声音で言う。
 イヴァンは終始笑っていた。





 夢だとわかって見る夢を何と言っただろう。
 見慣れた食堂に、自分とライヴィス、エドァルド、それにイヴァンがついている。テーブルの上にはドイツ風のケーキが載っていて、みるからに美味しそうな雰囲気を漂わせているのだが、全員が満腹なのでほとんど手つかずのままだ。客をもてなすときは食べきれない程の料理とウォトカで。この国に強く根付いた伝統だった。
 会話が途絶え、ぱちぱちと火の粉のはぜるペチカに視線を落としていたイヴァンが、ふいに席から立ち上がった。テーブルの上に置かれていた水さしをとり、空のグラスになみなみと注ぐ。そしてテーブルを離れた。
 イヴァンさん、と後ろ姿に呼びかけ、それが自分の声でなかったことには驚いた。間違いなくトーリスの声だった。そうしては自分が夢を見ていることを知る。
 の(トーリスの?)声に振り返ったイヴァンはいつも通り微笑んでいて、なのに自分は歯の根がかみ合わないほど震えている。
「…お願いします」
 びっくりするほどに悲痛な声だった。
 なにが?、とイヴァンは首を傾げる。
「だってかわいそうじゃない。彼女、住むところがないんでしょう」
「でも、」
「モスクワにいられなくなっちゃってもいいの?」

 つい先ほど、テーブルについていたうちのひとりがこっそりと身を隠すように滑り込んだ扉。それと同じ扉に、イヴァンもまた消えていった。彼の足音が消えるまでトーリスは身動きをとることもかなわなかった。
 やがてトーリスは頭を抱え、横から心配そうなエドァルドとライヴィスが彼の肩を支える。
 どうすればよかったのか、今はそのことを考えてばかりいる。





 風が雪を叩きつける音に驚いて目を開ける。布団にもぐりこんだものの、眠りはとても浅かった。枕元で確認した時計は2時16分を指している。本当に少ししか眠っていないことになる。
 すぐにまた枕に顔をうずめ、何回か深呼吸をした。胸が苦しく、しばらく眠気とは無縁そうだった。
 ふいに足音を聞いた気がして、は上半身を起こした。耳をそばだてれば、確かに廊下を人が歩く、こつこつという音がかすかに聞こえてくる。はそっとベッドから抜け出て、廊下に続くドアを静かに開いた。ちょうどイヴァンの背中が自室に続く廊下を曲がって消えていくところだった。足音は遠くへ響き、やがて暗闇だけがぽつりと残される。
 反射的に、はイヴァンの消えていったのと反対方向に視線をやっていた。